第1話後のロイの話


 

 トーヤが居なくなった。

 昨晩までは確かにあったはずの彼の姿は一夜のうちに忽然とパラディーゾの王都から消え、それが発覚してからは城内が上へ下への大騒ぎになっている。

 何せ、五年ぶりに再臨したもうた“救世主様”の失踪だ。ここぞとばかりにトーヤを利用してプルガトリウムとの戦争へ持ち込もうとしていた神殿の連中は、さぞかし慌てていることだろう。

 

 ──居なくなって、よかったのかもしれない。

 戦争の道具として利用されるくらいならば、いっそ。

 

 そう考えて、ロイは直ぐさま否定した。確かに神殿に利用される恐れはあるが、少なくとも目に見える範囲に居てさえくれればまだやりようはある。何よりも、彼の安全が保障されるという事が重要だった。

 五年前のトーヤの働きによって魔物の数は減ったにしろ、根絶にまで至った訳ではない。一人歩きなどさせては危険に決まっているし、ただでさえ彼のもつ黒髪は貴重だ。トーヤを救世主とは知らない人間が彼を拐かし、愛玩用としてどこかの誰かに売り飛ばしかねない。事実、五年前の旅でもそんなような事件は幾度も起こった。ロイが気を付けろと再三にわたって説教していたにもかかわらず、あのクソガキは馬鹿の一つ覚えのように誘拐されてはこちらが死ぬ気で取り戻していたのだ。あの頃を思い出すだに、苦労が甦ってきて奥歯が軋む。

 

(……それに、)

 

 今この時期に、万が一にでもプルガトリウムの連中にトーヤの身柄を押さえられてはまずい。

 救世主があちらの手に落ちたとなれば、神殿の煽りを待つまでもなくパラディーゾとプルガトリウムは全面戦争に突入するだろう。神殿の人間だけではなく、プルガトリウム側も戦争がしたくて堪らないからだ。彼らはパラディーゾで迫害されていた人々が独立して国を興した歴史を有するがゆえに、パラディーゾから国土を奪い、力で勝利する事に強い執着がある。対する神殿の神官連中は、かつて女神アニュエラから世界を統べるよう啓示を受けた初代パラディーゾ国王の逸話をもとに、その血を引く現在の王族こそが国土を統一すべきだと主張している。

 そういう争いたがっている奴らにとって、トーヤは免罪符を与える有り難い存在だった。彼は女神アニュエラが遣わしたもうた救世主であり、言わばアニュエラの代行者だ。そんな彼が(彼自身の意志かどうかは別にして)味方につけば、創造神たるアニュエラが味方についたと言っても過言ではない。つまり、トーヤを戦争の旗頭に据えることで「この戦争は神の意志であり正義は我々にある」という大義名分が生まれ、戦いたがっている両国に言い訳を与える事ができるのだ。

 そのために、彼らはトーヤを求め、戦争の旗頭として祭り上げんとしているのだ。民衆を煽り、国を戦争へと導いていく精神的指導者を彼に演じさせたくて。

 アニュエラの名のもと、それぞれの正義と信仰を全うするために。

 

(……だから、かえってきて欲しくなかった)

 

 見せたくなかった。あいつには。

 あいつが命がけで救ってくれたこの世界が、今度は魔物相手ではなく、人間同士の醜い争いで汚されようとしているなんて。五年前は便宜上にしろ協力し合っていた二つの国が、今度は殺し合おうとしているだなんて。

 見せたくなかった。あいつだけには。見れば、きっと傷つくから。

 

(すまない……トーヤ)

 

 瞼を下ろせば、彼の傷ついた表情が浮かび上がってくる。ろくにトーヤの話を聞きもせず、帰れと突き放したロイを愕然と見つめてきた二つの瞳。飴色のそれから流れ落ちた涙のひとしずくは、どんな言葉よりも雄弁に彼の心を物語っていた。

 いつもは鼓膜を破らんばかりに喚き散らすくせに、ああいうときのあいつの無言の悲鳴の方が、ずっとうるさくて痛い。やめてくれと言いたかった。頼むからずっと喚いていてくれと。黙れなんて言わない。昔みたいにすぐ尻餅もつかないから、いくらでも突き飛ばせ。そんな顔するな。泣くなよ。俺だって。俺だって、本当は。

 

(……嬉しくない、訳ないだろう。バカトーヤ)

 

 昨日トーヤにかけた言葉は九割がた本心だ。彼はやっぱり自分が生まれた世界で生きるべきだと思うし、それならばあちらに順応しなければならない。それがどんなに苦しく難しいことでも、トーヤ自身のために必要な事なのだ。だからこそ五年前のあのときもロイやほかの仲間たちは血が噴き出るような痛み、寂しさをおして彼を送り出した。今回だってそうだ。本当は再会できて嬉しかったけれど、彼を思えばこそ、つらく当たってみせた。

 トーヤは「元の世界は自分の居場所ではない」と言ったが、おそらく周囲の人間と上手く馴染めなかったのだろう。内弁慶で人見知りするところがあるあいつの事だ。どうせ元の世界に戻ってからもあの調子で最初から壁をつくり、溶け込もうとする努力を怠ったに違いない。

 ロイは自分が決して才能に恵まれた人間ではないことを自覚しているから、昔から人一倍努力を重ねてきた。だから怠惰な人間──中でも口だけは達者で実態を伴わない人間──が大嫌いだ。五年前トーヤと反りが合わなかったのはそういった部分が大きいのだが、あいつのそういう悪癖はまだ治っていなかったと、そういうことなのだろう。そう思うと、怒りを通り越してもはや呆れてしまった。

 

 だが勿論、ロイにも反省しなければならない点はある。

 トーヤには帰れの一点張りで通してしまったが、そもそも彼がなぜ、どうやってこのコメディアに再び現れたのか、彼自身にも分かっていない様子だった。五年前のように大神官長がアニュエラから啓示を受けたという話も聞かない。という事は、ロイがいくら帰れと言ったところでトーヤには帰り方が分からないのだ。なぜまたコメディアへ来てしまったのか、自分はどうすれば良いのか、分からない事だらけで彼も不安だっただろう。そんな彼に対して頭ごなしに帰れと責め立てたのは、申し訳なかったと思っている。冷静になってそう反省したからこそ夜が明けたら彼に謝罪しようと思っていたのに、実際朝になってみればこの通り、トーヤの姿はなくなっていた。

 言い訳をさせてもらうならば、彼との突然の再会でロイも混乱していたのだ。今の世界を彼に見せるのは忍びないやら、姫のことを知らせるのも忍びないやら、あとはもうとにかくこいつが幸せに生きるにはあちらの世界の方が間違いなく良い、という五年の別離の時に自らに言い聞かせた文言が頭を支配してしまっていた。

 

 あのとき、もう少し気が回ってさえいれば。

 そうすれば少なくともトーヤがパラディーゾを飛び出していくなんて事にはならなかったかもしれない。つまり、彼を危険に飛び込ませたのはロイだ。あんなに彼の無事と幸せを、願っていたはずだったのに。

 

 

「──ダインフォード副師団長」

 

 

 しゃがれた声に呼ばれて、跳ね上がるように振り向いた。

 そこには、ロイが副師団長を務める第五師団の団員が立っている。スキンヘッドが特徴のガタイの良い男だ。ロイよりずっと年嵩で、おそらく父よりも年齢が上なのではないだろうか。騎士団の中でも古株の多いこの第五師団で、ベテランの部類に入る人物だった。

 

「師団長が呼んでましたよ。急ぎの件だそうで」

「あ、はい。分かりました。すぐに戻ります」

 

 反射的に答えて、ハッとする。男が苦笑いを浮かべていた。部下に敬語を使ってどうする。

 

「あ……いや、すまない。伝言ご苦労だった」

「いえいえ」

 

 さして気に留めない様子で男は言うと、右手を左胸に添えて敬礼を取り、そのまま去っていった。いつもの事だから、と言外に言われた気がしたが、卑屈だろうか。

 

 ロイの年齢で副師団長を任せられるのは異例だ。

 騎士団長である父グレンのコネではないかと影で囁かれているのも知っているが、実際ロイ自身もそうではないかと疑っていたし、今でもそう思っている。考えるまでもなくロイはまだ実力不足で、五年前よりか成長したとは言え体だって十分に出来上がっているとは言い難い。第五師団の手練れたちと比べてしまえば、己の至らなさを思い知らされるばかりだ。

 その上、立場としてはロイの方が上であるにもかかわらず、無意識のうちに年上であり先輩である団員たちに敬語を使ってしまうため、ナメられているとは言わないまでも副師団長としての威厳はほぼないに等しかった。

 

「……トーヤの事を言えないかもしれないな、俺も」

 

 五年前は良かった、とロイも正直、何度となく考えた。

 ただ必死に目の前のことに取り組み、仲間たちと笑い、苦しみ、泣いた、あの日々が一番楽しかったと。ままならない“今”に足掻き、もがいているからこそ強く思う。

 

 それでも、ロイはいつまでも17歳のままでは居られないのだ。

 成長し、今や22歳になり、コネだろうとなんだろうと一介の騎士団員から第五師団副師団長にまでなった。人はずっと同じではいられない。新たな場所で、新たな戦いを、始めなくてならない。

 

(────どうか、無事でいてくれ)

 

 副師団長という責任ある立場になった以上、師団を放って勝手に行動する事は出来ない。例え任務であってもロイ個人に任されたり単独行動を容認される事はほぼないだろう。つまりそれは、居なくなったトーヤをロイ自らが探しに行くことが無理に等しい事を意味していた。五年前のような一介の団員だった時分ならまだしも、今のロイには到底許されるものではない。

 本当は捜しに行きたい。もう一度会って、城から脱け出したことを叱り、いま世の中がどれだけ切迫した状況にあって一人で行動することがどれだけ危ないのかをこんこんと言って聞かせ、言い過ぎたことを謝り、しかし間違ったことは言っていないと主張し、昔のように喧嘩がしたい。そうして、最後はあの艶やかな黒髪を撫でてやるのだ。大きくなったなと、言葉を添えて。

 

 

 叶わない願いを思い描きながら、ロイは遠く薄水色の空を見上げる。

 成長という不自由さを噛み締めながら、ただ、じっと。

 

 

 

 

201605013

(20200630再掲)