帽子屋さんと眠りネズミが暫定的なアジトとして借りている家は、存外広い。帽子屋さんには家の中なら自由に動き回ってもいいと言われているので、最近の私の楽しみと言えばもっぱら屋内探索だ。いや、まあ、楽しみというかそれしかする事がないのだけれど。ちなみに、探索している途中ここから逃げちゃおうかなと思った事がない訳でもない。ただその度に、銃を構えた帽子屋さんの姿が頭をよぎるのだ。なんかもう、トラウマとして刷り込まれてるんじゃなかろうか。
探索と言っても、所詮は一戸建てだから初日で大概の所は見て回ってしまう訳で、それからは新しい発見を発見するための探索になっている。今のところ、収穫はないのだけれど。
二階に上がると、私に割り振られた部屋から三つほど離れた部屋のドアが、半端に開いていた。三人しかいないのに対して部屋数があまりに多いので、自分の部屋を覚えたのはごく最近の事。そんな曖昧なものだから、開いているその部屋が果たして空き部屋だったのか二人どちらかの部屋だったのか、正直定かじゃない。とりあえず開けっ放しもアレだろうと、そのドアに近付いた。
閉めようとドアノブを握って、少し、動きを止める。偶然目に入った室内に、見覚えのあるスーツがあった。
……もしかして。
いや、もしかしなくても、ここは帽子屋さんの部屋なのだろうか。好奇心が、むずむず、と頭をもたげる。──入ってみたい。ただでさえ普段から苦手としている相手だ。ちょっとお邪魔して、弱点の一つや二つ、調べてみたいと思ってしまうのも仕方がないはず。そう、仕方がないはず!
「し、失礼しまーす……」
閉めるために握ったドアノブを、そっと引いた。小さく軋みながらドアが開く。途端、ものすごく悪い事をしている気分になったけれど、これは日頃の鬱憤を晴らすため晴らすため晴らすため、と何度も自分に言い聞かせて、ようやく部屋に足を踏み入れた。
「……なんか、物が少ない部屋だなあ……」
ざっと見回してみると、綺麗に整えられたベッドや、その上に放り出されたスーツやトランク、そして、また半端に開いたクローゼットくらいしか生活を感じさせるものはなかった。というか、几帳面なのか大雑把なのかよく分からないです帽子屋さん。
とりあえず、ドアはちゃんと閉めるように言った方がいいかもしれない。言う勇気はないけれど。
そこでふと、サイドテーブルに置かれた写真立てが目に入った。何故か意味あり気に伏せられたそれ。何となく気になって、手に取ってみる。
「……誰だろう?これ」
枠の中には、ものすごい仏頂面の男の人と、楽しそうに笑う可愛らしい女の人が、寄り添い合うように立っていた。二人の表情は対照的で、それなのに、どこか幸せそうな雰囲気を感じさせる。いい写真だなあ、と思わず笑ってしまうくらいには。
けれど、どうしてこんなものを帽子屋さんが? そこまで考えて、あれ?と首を傾げる。もう一度まじまじと写真を見つめた。もしかして、この男の人の方って──帽子屋さん?
「そうだよ、アリス」
「どぉわあ!」
肩が尋常じゃないくらいに跳ねて、慌てて後ろを振り返る。そこには何故か、例のにやにや顔が佇んでいた。
「ちっ……チェシャ猫?! なんでここに、いや、ていうかどこから入っ……いやいやいや、その前にいつからそこに?! あ、じゃなくて、……ええと、ひっ、人の心を読むなばか!」
「すごいねアリス、ものすごく混乱してるのが伝わってくるよ」
「ちゃんと質問に答えてよ!」
「どれに?」
「え? あ、ええーと」
「まあどれでもいいけれどね。ボクに常識なんて通用しないよ、アリス」
にやにや顔、もといチェシャ猫は、暗闇みたいな真っ黒のローブから痩せた手を覗かせて、私が持っている写真を指差した。そしてもう一度、今度は確かな言葉で、それは帽子屋だよ、と言う。仏頂面で写る、この男の人が。
拉致されてかれこれひと月は経つけれど、私はまだ帽子屋さんの素顔を見た事がない。あの人、是が非でも帽子脱がないんだもん。けれど、よもやこんな所で素顔を知ることになろうとは。
「……あ、そうだ。ていうかチェシャ猫、ずっと言いたかったんだけど、ちょっと一発殴らせてもらってもい……」
「それで、こっちがメアリ・アンだよ、アリス」
「……はい? いや、そうじゃなくて一発殴ら、」
「メアリ・アンだよ、アリス」
「あの、だから……」
「メアリ・アンだよ、アリス」
「………メ、メアリさん?」
「メアリ・アンだよ、アリス」
「わ、わかった、わかったからそんな連呼しないで!」
「メアリ・アンはメアリ・アンだから、それ以外には言い様がないよ、アリス」
上手くかわされた、というか無理やり話を逸らされた気がしないでもないけれど、とにかく写真の女の人はメアリ・アンと言うらしい。帽子屋さんと、会った事もないメアリ・アンさん。少し考えて、私はその写真立てを元あった位置に伏せた。これは多分、私が立ち入っちゃいけないものだ。今更ながら後ろめたくなってきて、慌てて踵を返す。ついでにチェシャ猫も連れて出ていこうと腕を掴むと、動きを遮るようにチェシャ猫が呟いた。ねえ、アリス。
「きっと、彼女が帽子屋の“願い”なんだろうね」
進みかけていた、足が止まる。チェシャ猫を見ると、相変わらずにやにやにやにや笑っていた。掴んだ腕はひんやりと冷たくて、痩せすぎで、骨みたいだ。そういえば、こんなにしっかりと触れたのは初めてかもしれないと、思う。
「でも、キミには関係ない事だから、別に気にする事はないよ、アリス」
「……え?」
「白ウサギが叶えてくれる願い事は一つきりだ。だからキミは、キミの願いを叶えることだけを考えていれば良い。彼の願いはどうせ踏みにじるしかないのだから」
「ち、チェシャ猫……」
「言ったでしょう? 彼らは天使にも悪魔にもなり得るって。白ウサギに辿り着くために、上手く利用さえ出来れば天使。ほだされて願い事を奪われでもすれば悪魔。 そうなると、キミはもう二度と元の世界に戻れなくなってしまうね」
「……えっ、そんな……!」
「アリス、よく考えることだよ。あるいは何も考えなくて良い。キミの願いのために、キミがするべき事は何か。──そのうち他人の願いなんて構っていられなくなるさ」
どろり、と掴んでいる腕が溶け出して、チェシャ猫が空気に溶けていく。また言い逃げか。しかも、今度はかなり重いメッセージを残して。
「待ってチェシャ猫!」
「待てないよ、アリス。もう溶け出しているもの」
「なら、せめてこれだけは答えて! チェシャ猫はっ……!」
──チェシャ猫は、私の味方なの?
尋ねると、ほぼ頭しか残っていない彼が笑った。にんまりと、これは初めて見る表情だ。チェシャ猫に表情のバリエーションがあったなんて。
「ボクはいつだって、『アリス』の味方だよ」
最後ににゅっと突き出してきた頭は、私の額に少しの衝撃とやわらかなぬくもりだけを残して、ぐずぐずと無くなっていった。
味方。もう一度呟くと、なんだか泣いてしまいたくなった。脳裏にちらりと眠りネズミがよぎる。なかまだと、笑ってくれた人。知らない内に、片手は額へ、片手はポケットの金時計へと移っていた。
「……なんで、こんな事になってるんだろう」
もしこれが夢だとしたなら、はやく覚めてしまえばいいのに。こんな世界くそくらえだ。いきなり穴に放り出されて、こんな変なところに押し込められたこっちの気持ちにもなってみろってんだ、ばーか!
私は部屋を飛び出して、けれども注意深くドアを閉めて、廊下の突き当たりにある窓を思いっきり開け放した。
──開け放したところで、閉塞感は変わりなどしなかったけれど。
20110308改稿
(20200630再掲)