「やあ、アリス。お目覚めかい?」
目を開けると、知らない男の人が私を見下ろしていた。藍のような黒のような不思議な色合いの髪に、金色の目。吊り上がった唇の隙間からは、獣みたいな鋭い歯が覗いている。
「……え、だれ?」
「チェシャ猫だよ、アリス」
「ちぇ…?」
「チェシャ猫だよ、アリス」
「ええと…あなた、猫なの?」
「猫だよ」
「……はあ、」
「そして君はアリスだ。不思議の国へようこそ、アリス」
そう言って、男の人は私に手を差し伸べた。
──そういえば私、寝転がっているんだっけ。
慌ててその手をとると、思ったよりもずっと優しい仕草で握り返された。長い爪と、痩せて骨ばった指。それにぐんっと力強く引かれて、勢いよく立ち上がる。あまりにも勢いが良すぎたせいで、黒の外套に包まれた男の人の胸元に思わず顔面からぶつかった。
「ぶっ!」
「おや、大丈夫かいアリス」
「…うう、ご、ごめんなさい…」
鼻を押さえながら謝ると、平気だよ、と男の人はただにやにやと笑う。まるで口角が固定されてるみたいだった。
まじまじと見上げて、やがて周りにも視線を巡らせる。そこには薄暗い森が広がっていた。
「こ、ここは、どこなの…?」
「不思議の国だよ、アリス」
「いや、そういう事じゃなくて……」
「不思議の国だよ、アリス」
「…わ、わかった。それじゃあ、不思議の国ってなんなの?」
「不思議の国は不思議の国だよ、アリス」
「……そ、そう…」
「ところでアリス、それは一体どうしたのかな」
未だに握られたままの手とは反対の手を指差して、男の人が言った。
それの意味するものがわからずに、同じように視線を落とす。そうしたら、自分の手のひらに何かがしっかりと握りしめられているのが目に入った。
「これって…」
「白ウサギの金時計だね」
「う、ウサギ?」
「金時計を持っているのは白ウサギだけだよ、アリス」
「ええと…、あの、そういうものなの?」
「そういうものだよ」
「……はあ」
よくわからないけれど、どうやらこれはその白ウサギさんの時計らしい。
──白ウサギ、か。
意識を手放す直前、最後に見た全身白づくめの男の子を思い出す。そういえばあの子が持っていた時計もこんな感じだったなあと考えて、ふと一つの疑問が浮かんだ。
「……ねえ、チェシャ猫さん」
「チェシャ猫で構わないよ、アリス」
「じゃあ、チェシャ猫。ちょっといいかな」
「なんだい?」
「あの、悪いんだけど……私、アリスって名前じゃないの」
相変わらずにやにや笑いは微動だにしなかったけれど、男の人──チェシャ猫は、くるりと目を丸くした。まるで、何を言ってるんだとでも言いたげな顔で、ただ一言。
「そんな事は最初から知ってるよ、アリス」
「…は?」
「名前なんてものは大した意味を持たない。そうだろう?」
こてん、と可愛らしく首を傾げられる。だけど生憎その先に付いてる頭はにやにや笑い継続中だったので、可愛さは半減かそれ以下だ。というか、言ってることがだいぶ理不尽な気がするのは気のせいだろうか。私、アリスなんて名前じゃないのに。
「そんなことより、アリス」
「……なに?」
「白ウサギを探さなくてもいいのかい?」
「え……さ、探すの? なんで?」
「白ウサギがいないと元の世界には戻れないからだよ、アリス」
「……ええっ?!」
20200630再掲
(ふしぎな冒険のはじまり、はじまり)