きよらかな孤獨


 

 最近四月一日のテンションが低い。もともとハイテンションな人間ではないしどちらかと言えば低い方だとは思うが、それを差し引いたって低い。理由を聞いても奴がだんまりを通しているので判然とせず、こちらとしては首を捻るばかりである。

 

 しかし、実は心当たりならある。

 

 二週間ほど前、デスクにかじりつくワーカーホリックもとい四月一日を連れ出し、昼飯に出掛けた時のことだ。

 その日、たまたま前の晩にユリコ(俺の恋人の一人だ)から最近出来た大衆イタリアンの店がなかなか美味いという話を聞かされていて、ちょうど職場からそう離れてもいなかったのでそこへ行く事にした。冒険心のない四月一日は死ぬほど嫌がったが、いつもの事なので勿論黙殺する。

 しかし、どうやらその些細な昼飯の冒険がいただけなかったらしい。

 

 

「──……あきら?」

 

 

 女子で賑わうイタリアンの店で昼を済ませたあと、なんであんな女だらけのとこで飯食わなきゃなんないんだ俺はいつもの定食屋でよかったのにとぶつぶつ文句を垂れる四月一日を宥めていると、その声は現れた。

 声を耳にした瞬間の四月一日の顔を覚えている。というか、忘れられない。憮然とした表情が一瞬で凍りつき、何がなんだか分からないと顔面に大きく書かれていた。

 

「あきら……あきらだよな? なあ、あきら!」

 

 振り返ると、芸能人もかくやと思われるほど恐ろしく顔の整った男がこちらへ近付いてきている。何だ何だ、ナンパか? 訝りながらも男の容姿にざっと目を通してしまうのは、最早サガみたいなものだろう。

 しかしまあ、女受けの良さそうな甘めの顔立ちといい、スーツの映える長い手足といい、なんでこんなのが昼間のオフィス街なんかうろついてんだと言いたくなるような色男だった。これでもうちょっと不健全そうな雰囲気を醸し出していたなら、もろストライクゾーンである。四月一日は俺を指して面食いだと称したが、俺から言わせれば美男子だろうが不細工だろうが頓着しない四月一日が悪食なのだ。雑食とも言う。実際に言ったら肩パンを食らわされたが。

 

 男は俺たちの側まで駆け寄ってくると、表情に少し不安そうな色を滲ませた。そういえばさっきから全く俺を見ていない。一心に視線が向かう、その先を追ってみる。

 

「……俺、分かんないか? 匠だよ、赤星匠。覚えてない?」

 

 頼むから覚えててくれと懇願するような声がひたすらに注がれているのは、俺の隣でひっそりと立つ四月一日に対してだった。そういやこいつ、下の名前あきらだったっけ。最初字面を見たときにアカツキと読んで訂正されたのを思い出す。そしてその時あいつは確か、先に下の名前間違われたの生まれて初めてだよ、と言って笑っていたのだ。

 四月一日は、向けられた視線から逃れるように俯いて体を萎縮させている。こんな様子は初めてだった。只事ではない。

 

「なあ、あきら……」

「すみませんが、」

 

 尚も声をかけ続ける男を制して二人の間に体を割り入れると、男はその時ようやく俺の存在を認識したようだった。おいこら、こんなイイ男を捕まえてなんて野郎だ。

 

「どなたか存じ上げませんが、四月一日のお知り合いですか? 今こいつあんまり体調が良くないようなので、用件があるようでしたらまた後日にして頂きたいんですが」

「……どなたですか?」

「これは失礼。私、塩田と申します」

 

 四月一日とは同じ会社の同期でして、と取っておきの笑顔を浮かべながら名刺を手渡す。受け取ると、男は無言でそれを見つめたあと、失礼しました、と言って自分も名刺を取り出した。渡されたそれには外資系の超有名な社名と、赤星匠という名前が印字されている。

 

「へえ、すごいな。こんな大手にお勤めなんですか」

「……あきら」

 

 社交辞令が終わったら早速シカトである。

 漫画に出てくる王子みたいな見かけしてこいつ結構なタマだな。営業という仕事柄、気は長く持つようにしているしポーカーフェイスも得意な方だと自負しているが、なにぶん今は昼休みでそのスイッチはオフになっている。そんな時にこの傍若無人はさすがに目に余るぞ色男よ。後から四月一日に聞かされて分かったが、この時の俺のこめかみには青筋が浮かんでいたらしい。

 

「……匠」

 

 そんな俺を見かねてか、四月一日が口を開いた。顔は青ざめていたが、存外しっかりした口調で話し出す。

 

「あきら……俺のこと、覚えてるのか?」

「……覚えてるよ」

「そうか……よかった……! ずっと会いたかったんだ。いきなりいなくなってから、ほんと、ずっと捜してて」

「……ごめん」

「すげえ心配したんだぞ。お前なんで黙って引っ越したんだよ。ていうか、なんで俺に嘘ついたんだ? 知らない内に大学も他んとこ受けてるし……なあ、俺、お前になんかしたか?」

「……」

「……あきら?」

 

 おそるおそる伸ばされたその右手が、俯きがちの四月一日の肩にそっと触れる。どこかすがるような手つきだった。

 

「……もしかして、俺に、愛想尽かしたのか?」

 

 四月一日はその指先を視線で追うと、おもむろにそれを掴んでゆるく握った。

 

「……違うよ」

 

 そしてゆっくりと、引き剥がす。聞き分けのない子どもを諭す、母親のような仕草だ。

 

「違う。あれは、全部俺の問題で、匠は何も関係ない。愛想尽かした訳でもない。勝手やってごめん」

「……なんで何も相談してくれなかったんだよ」

「……ごめん」

「お前がいなくなってから、俺がどれだけ……」

 

 四月一日の手を捕まえるように強く握り返し、男が深く俯く。

 

「……」

 

 なんか感動の再会的な事をやっているなか申し訳ないんだが、こいつらはTPOという言葉を知っているのだろうか。平日の真っ昼間から男二人が手を握り合っているという状況がどれだけ人目を引いているか分かっていないのだろうか。周囲からの視線がものすごく刺さる。一緒にいる俺まで巻き添えを食らうのでそろそろ気付け頼むから。

 そんな事を考えながら、ちらりと腕時計に視線を落とす。もうそろそろ戻らなければまずいだろう。それとなく手をひらひらと振ると、こちらに視線を配った四月一日が、ああ時間か、と心得た顔をした。

 

「……匠。悪い、俺もう戻るよ」

「あ……そう、か」

「ごめん」

「……なあ、あきら。せっかくまた会えたんだし、連絡先教えてくれよ。今度飲みに行こう?」

 

 そう誘われた瞬間に、四月一日がすこぶる嫌そうな顔をしたのを俺は見逃さなかった。眉が八の字になって一見すると可哀想な顔にしか見えないが、あれは間違いなく嫌な時の顔だ。その表情を見て、そんな嫌そうな顔するなよ、と苦笑したのは目の前の男だった。この表情の意味する所に気付くという事は、少なくとも浅い関係ではないらしい。

 

「……嫌だ」

「何で? 何が嫌なんだ?」

「飲みには行かない。……もう俺に関わるなよ」

「それこそ嫌だよ。さっきも言っただろ、俺はずっとお前を探してた。会いたかったんだ。話したい事が山程ある」

「……」

「な? あきら」

 

 差し出された手のひらをじっと見つめて、見つめて、見つめて、一分くらい見つめ続けて、さすがに俺が強制介入しようとしたところで四月一日はようやくパンツのポケットから携帯端末を取り出し、男の手のひらにぽんと置いた。弾けるように、男が破顔する。

 

「……連絡先、教えるだけだからな。飲みには行かないからな」

「はいはい」

「変なとこ操作すんなよ」

「分かってる分かってる」

「ちゃんと聞いてんのかおまえ」

「聞いてるって」

 

 そのやりとりを見守りながら、俺は予感していた。

 ああ、これは絶対押し切られるな、と。

 

 

 

 それからである、四月一日のテンションが日に日に低くなっていったのは。

 聞くところによると、あれから三日と置かずにメールやら電話やらで飲みの誘いがあるらしい。ひどい時には俺の名刺から会社を特定したあの男が駅までの道すがらで待っていた事もあるという。それもう立派なストーカーじゃねえの、と親切心で忠告してやったら、いやあいつも悪気はないんだよ悪気はさあ……と何故かストーカーのフォローをされた。それでいいのか。

 そうした数々のストーカー行為(仮)に辟易したのか、あれほどワーカーホリックだった四月一日がついに会社に来たくないと思い始めたそうだ。最近ではもうメールは返さず電話にも出ない事にしたようだが、帰り道にあの男が待っているかもしれないと思うと日中の仕事も倍疲れるとよく愚痴っている。一緒に飯食ってると湿っぽくて仕方ない。

 

 全く、仕様のない奴だ。

 ここは一つ俺がうまい酒でも奢って、励ましてやろうじゃないか。

 

 

 

 

 仕事終わりに馴染みの飲み屋へ連れていってやると、四月一日はここ最近の憂さを晴らすかのようにまあ食った。普段はそんなに食わないくせに(本人いわく省エネ体質らしい)奢ってやると言った途端にこれである。

 そのくせ酒はあまり飲もうとしないので首を傾げた。確かにそんな強い方でもなかったと記憶しているが、それにしたって最初に頼んだビールをちびりちびりとスローペースで消費している。大の男がなんて貧乏くさい飲み方してるんだと文句を言ったら、もう二度と泥酔しないって誓ったんだよ俺は、とものすごく遠い目をされた。なんだかよく分からんが酒で失敗したらしい。とりあえず慰めついでにヘッドロックをかけておいた。殴られた。

 

 散々飲んで食ってお開きになったのは、二時間後の事だった。

 店を出る時、支払いを終えた俺にありがとうと告げた四月一日は、そこそこ元気を取り戻したようである。ただ如何せんあの男の事がある以上四月一日を一人で帰らせるのも気が引けたので、いらないよと嫌がる四月一日を無理矢理タクシーに押し込み、俺も一緒に乗り込んだ。

 生憎自宅の場所までは知らなかったので、運転手のおっさんにとりあえず走らせて下さいとだけ頼む。そうすれば自動的にメーターが上がる訳で、でもこのタクシーはどこにも向かっていない訳で、庶民的な金銭感覚をきちんとお持ちでいらっしゃる四月一日はようよう居たたまれなくなったらしい、自らおっさんに住所を告げた。よしよし、大変よく出来ました。

 

 そうして四月一日が住んでいるアパートが近付いた頃、隣で大人しくしていたはずの四月一日が突然がばりと運転席にかじりついて大きな声を発した。

 

「停めて下さい!」

 

 おっさんが困ったようにちらちらと振り向きつつ、言われた通りに停車する。すると、四月一日は財布から万札を取り出しおっさんに押し付けて、ばたばたとタクシーを降りた。俺とおっさんは呆気に取られて来た道を徒歩で戻っていく四月一日をしばらく見送ってしまう。

 

「……ええと……お客さん、これどうしましょう……」

「あー……俺もここで降りるんで、釣り貰えますか?」

 

 慌てて適当に万札を出したのだろうが、さすがにあの距離でこんなにかかったらとんだぼったくりタクシーだ。おっさんから正当な釣りを受け取りタクシーを降りて四月一日が歩いていった方へ足を向ける。まだ背中が見えた。

 そして何気なく、ふと四月一日の住むというアパートを振り返った。建物の前に人影が立っている。

 

 それは、遠目から見てもやけにスタイルの良いスーツ姿の男のように見受けられた。

 

 

 

 

 見えていたはずの背中がぐんぐん遠のいていくのを追い掛けていたら、久しぶりに走ってしまった。体型キープのために休日ジム通いはしているが、走る事と筋トレは俺の中で全く別物であり、ぶっちゃけ走るのとか死ぬほど嫌いである。その俺がダッシュ。しかもスーツで。明日槍降るぞ。

 

「おっまえどんだけ足速ぇんだよ……」

 

 見失ったかと思ったわ、と文句をぶつけてやると、コンビニ前の駐車場の縁石に座っていた四月一日がのろのろと顔を上げた。

 

「……うわ、なんで居んの」

「うわじゃねえわ。おら、さっきのタクシーの釣り」

「ああ……サンキュ」

「一般庶民のくせして釣りはいりませんとかやってんじゃねえっつの」

「……ごめん、なんかテンパってた」

 

 釣りを財布に納めながら言う四月一日は、あの男と再会した日と同じくらい青ざめている。俺が見たアレは、やはりあの男で間違いないらしい。

 

「……あー! つっかれた!」

「……なに、おまえ走ったの」

「走ったよそりゃあ、三十路手前にして。夜中だから良かったけど」

「おまえ走り方変だもんな」

「うるせえ」

「なんかすげえ姿勢いいの」

「うーるーせーえー」

 

 低いところにある旋毛を人差し指でぐりぐり押してやると、下痢になるだろっと叩き落とされた。声が笑っている。それを確認してから、四月一日が陣取っている隣の縁石にどっかりと座り込んだ。

 

「おい、四月一日」

「なに」

「わざわざ走って追ってきてやった俺様になにか礼を寄越せ」

「はあ?」

「喉乾いた」

「……だから?」

「飲みもん奢って」

「自分で買えよ……」

「飲み屋では奢ってやったろーが」

「タクシー代は俺が払ったじゃん」

「いいから、ほら! 買ってこいよ」

 

 腕を伸ばして四月一日の肩をぐいぐい押しやると、ぶつくさ言いながらもヤツはちゃんと立ち上がった。そして低い声で一言。

 

「……ネクター買ってきてやる」

「ぜってーやめろバカ」

 

 走ったあとにあのどろどろしたクソ甘い飲み物飲ませるとか俺の喉死ぬぞ。ひとのネクター嫌いをこんな時に持ち出すとはなんて野郎だ。

 言ってはみるものの、颯爽と自動ドアの向こうの住人となった四月一日に果たして俺の抗議が聞こえていたのかどうか。まあ嫌がらせをするくらいの元気があるというのは、よい事だろう。だがもしネクター買ってきたら絶対に許さん。

 

 

 

 結局、四月一日は無難に缶コーヒーを買ってきた。

 それを飲みながら、大の男二人がコンビニの前で座り込んでいる。二人ともそれなりのスーツを着ているので端から見ればさぞや異様な光景だろう。田舎のヤンキーや意気がってる高校生じゃあるまいし。

 

「あのさあ、お前」

「うん」

「あいつに、家知られてんだったら流石に警察とかに相談すれば」

 

 さっき見かけた男の姿を思い出す。四月一日はまず間違いなく、あの男がいる事に気が付いたから逃げ出したのだろう。

 昨今のストーカー被害は同性間でもよく見られるものだ。そのすべてが必ずしも同性愛と繋げられるものではないから、相談くらいはしておいても問題ないはずである。

 

「……あれは、そういうんじゃないよ」

「阿呆か。電話もメールも立派なつきまといだし、家調べて直接来るなんざ完全アウトだろ」

「そうじゃなくて」

「あ?」

「家教えたの、俺だし」

 

 危うく缶コーヒーを取り落としそうになった。……教えた?

 

「この前一緒に飲んだときに俺が酔っぱらって、あいつが連れて帰ってきてくれたことがあって。そんときに住所どこだって聞かれて、教えた。俺が」

「一緒にって、お前……いつの間に」

「言ってなかった。ごめん」

 

 すました顔でさらっと謝った四月一日に、言うつもりがなかったの間違いじゃないのか、と言ってやりたくなった。再会した知人からストーカーまがいの誘いを受けていて精神的に随分参っているようだ、とせっかく心配してやっていたというのに、何だ、結局イイ仲になってやがったのか。

 という事は、さっきの男の姿は「今夜はアポなしで泊まりに来ちゃいました!」的なサプライズだったのか。このあと帰ったらお楽しみが待ってんのか。おいおい。これじゃあ俺がとんだピエロじゃないか。

 

「でも、」

「ああん?」

 

 親切心を無下にされた事に思いのほか腹が立っているようで、むかむかしたまま返事をしたら多少ガラが悪くなってしまった。まずい。

 

「でもまさか、また来るとは思ってなかった」

「……はあ?」

「もう、今度こそ、二度と会わないもんだと思ってたから」

 

(……何だ?)

 

 どうも様子が変だ、と思い四月一日を見やる。

 顔は伏せられていた。表情は見えない。

 

「なんで来るかな、あいつ。馬鹿じゃねえの」

 

 ぽつん、と半紙に墨が一滴落ちるような声だった。

 落ちた墨が滲んで、半紙にじわりと広がっていく。黒が白を侵食していく。そういう心地がする。四月一日はたまに、こういうじわじわとした話し方をする。

 

(何があった)

 

 直接、聞けば良いのかもしれない。しかしこの話し方をする時の四月一日は、駄目だ、と俺は経験から知っている。きっと尋ねたところで答えようとはしない。それどころか、強く拒絶されるだろう。俺が今現在こいつと親しいポジションにいるのは、それをしっかり弁えて、程よい距離を保っているからだ。

 もう三十年近く生きていると、人に触れられたくない部分の一つや二つ、三つ四つはあるものである。若いうちはそういうものも含めてすべてを共有するのが愛だとか友情だとか青臭いことを思っていた頃もあったが、そのうち段々、見ないふりをする優しさを知った。そういう優しさがひどく沁みる事があるというのを知った。四月一日は、人一倍そういう優しさを他人に要求する人間なのだ。

 

「……あいつに会いたくねえなら」

「……」

「うち来るか」

「行かねえよ」

 

 即答された。でしょうね。

 

「お前ん家なんか行ったら速攻で食われそう。絶対いやだ」

「食うかバカ! お前なんか俺のタイプじゃねえ」

「悪かったな不細工で」

 

 上げられたその横顔から、そっと視線を外した。なに食わぬ顔をしているのだろう。見なくても分かる。

 四月一日は、持っていた缶コーヒーをぐいっと煽ると、空いたそれを後ろにあるゴミ箱に突っ込んでのろのろと立ち上がった。

 

「……行くかな。そろそろ」

 

 それにならって俺も立ち上がる。大きく伸びをすると、バキバキと音をたてる体に四月一日が視線を寄越してきた。

 

「もうおっさんじゃん」

「バカ言え。まだお兄さんだわ」

 

 隣で笑う気配。

 これでいい。

 

「送ってくか」

「健康な成人男性なのでこれくらいの距離一人で大丈夫です」

「だよな。俺もいま自分で言ってちょっとキモかった」

 

 おまえはどうすんの、と聞かれたので、適当に通りに出てタクシーでも拾うと返した。言いしなにコーヒーの空き缶をゴミ箱に放る。

 

「じゃ、今日はご馳走さまでした」

「おう。有り難がれ」

「はいはい。またな」

 

 ひらひらと手を振って四月一日が来た道を戻っていく。アパートの前ではまだあの男が佇んでいるんだろうか。四月一日は男と何を話すつもりなのだろうか。俺は結局、あの二人について何も知らない。

 だが、四月一日が俺に見ない振り知らない振りを求めるなら、それに乗ってやろうと思うくらいには、俺はヤツに対して友情なんてものを感じている。だからこの先四月一日が自分から話さない限り、俺があいつらに関して何かを知る事はないだろう。

 

 ただ、その一方で、ガラスの箱の中に閉じ籠っているようなあの四月一日という男の、壁という壁を叩き壊したなら、どうなるだろうかと夢想する事がある。初めて会った時に感じ、いつの間にか薄れた俺の中のなにかが、砕け!と訴え、蠢くのをふとした瞬間に感じる。俺は多分、一歩踏み込みたがっている。

 

(……だから、どうした)

 

 踏み込んだところで、そこは虚空だと、俺は知っているというのに。

 

 

 

 

20200630再掲