ぱちぱち、ぱちん。
指先から垂れた頼りないこよりが、火花を散らせてもえている。
線香花火だ。
「アタシねえ、花火ってとっても好きなのよ」
買ってきたのは、何を隠そうこのママである。
突然、花火買ってきたわよお、という猛々しい雄叫びとともに現れて、たまたまそのときアパルトマンにはわたししかいなかったから、案の定捕まった。ちなみに、あっくんはお友だちと飲みに、達也さんは出張中である。
ママが買ってきた花火セットには、ド派手なロケット花火から味わい深いねずみ花火までいろいろ入っていて、なのにわたしたちはなぜか、締めにやるのが定番なはずの線香花火から始めた。というか、発起人であるママが手始めにといそいそ線香花火を取り出してしまったので、わたしもそれを手に取らざるを得なくなったと言った方が正しい。わたしはほんとうは、へび花火がやりたかったのだけれど。
「アイちゃんは?」
「え?」
「花火。好き?」
聞かれて、ぱちんと瞬きする。こよりの先では火の雫が、ぱちぱちぱちんと弾けている。
「……あんまり」
「あらあ、そうなの?」
「だって、花火って、なんかさびしくなるから」
そう言ってすぐ、ぽとり、と火の雫が地面に落ちてしまう。あーあ、まだ始めたばっかりだったのに。わたしは昔から、線香花火を長生きさせてやるのがへたくそだ。
花火は、確かにきれい。けれどきれいなのは一瞬で、終わってしまったら、あとは暗闇と、静寂と、言い知れない切なさと、ひとり置いていかれたようなさびしさだけが残る。
たまに、思うことがある。
わたしにとって多くのひとは、この花火みたいな存在なんだろうなって。どんなに楽しく時間を過ごし、どんなに好ましく思っていても、その光はすぐにわたしの手を離れて、わたしを置いていってしまう。
わたしはだれかを恋愛感情としては愛せないから、どれだけそのひとのことを好きになったって、ずっと一緒にいることはできない。なぜなら世の中で言う「ずっと一緒に」は、「結婚」と同義語に近いからだ。そして結婚は、愛したひととするのが望ましいとされている。なら、ひとを愛せないわたしは、ただだれかの通過点でいるしかない。取り残されて、永遠に、ひとりぼっち。
たかが花火ひとつで、なにを大げさな話にしているんだ、とひとは言うだろうか。
それなら、たかが恋愛感情がないくらいでなにを大げさに嘆いているんだ、とも笑ってくれるだろうか。
答えは簡単だ。笑ってくれない。愛だ恋だで溢れかえっているこの世の中では、わたしは異端者だから。理解しがたいものとして拒絶されるか、寛容という皮をかぶった人たちに価値観を押しつけられるか、それだけだ。
結局、孤独は晴れない。
「アタシが、花火を好きなのはね」
じっとわたしを見つめていたママが、不意に言った。
付け睫毛でばさばさしてるママの目が、火花を反射してきらきらしている。きれいだな、と純粋に思った。
「難しいことは、なんにもないの」
「はあ」
「ただ、いま隣に、アイちゃんがいるから」
ぐしゃり。
火の雫もなく惰性で手にしていたこよりが握りつぶれた。びっくりしたのである。
「……わたし?」
問うと、ママはにっこりと笑って、まだぱちぱちと火花を散らしている自分の線香花火を、そっとわたしに差し出した。
「あげるわあ」
「え」
「ほら、アイちゃん」
あ、とか、う、とか言いながらとりあえず手を伸ばして受け取る。
と同時に、火の雫は今までの平静さがウソのようにぶるぶると震えだし、落ちた。
「あっ」
「あっ」
ママと目が合う。
無言で責められた。ような気がした。
気まずく思ってむっつりと押し黙ると、わたしは視線を下にやる。
もう物言わぬ線香花火。わたしはやっぱり、彼らを長生きさせてはやれないようだ。そしてやっぱり、わたしはいつも取り残されてひとりぼっち。そういう運命。らしい。
不意に、ぶすすっと吹き出す音がした。
「もうっ、アイちゃんたらへったくそねえ!」
顔を上げたら、ママが豪快に大きな口を開けて笑っていた。ついでにいつもの怪力で背中をバンバン叩かれる。いたい。
毎回被害を受けているあっくんの気持ちがそれこそ痛いほどわかってしまった。今度からはさりげなく助けてあげよう。
「仕方ないから、はい! 新しいのあげるからもう一回トライよお!」
「え……」
「今度は束でいっちゃいましょうか! 落としたら罰ゲームね」
「え!」
ママはとにかく目にも止まらない速さで、てきぱきと新しい線香花火をワサッと取りだし、わたしにそのうちのひと束を握らせ、自分のとわたしの線香花火にライターで火をつけた。プロの犯行、という文言が頭に浮かんだ。
されるがままだったわたしは、再び火花が散りだして静かになったママの横顔を、じっと見つめる。ママは穏やかに笑っていた。
「ねえ、アイちゃん」
「うん?」
「例えいま、この一瞬だけしかなくてもね」
ぱちぱち、ぱちん。
「アイちゃんが隣にいる『今』を、アタシは幸福だと思うわ」
──静かだ。
ただ、ママの声だけが染みていく、静かな夜。
わたしはママの言葉をゆっくりと咀嚼して、咀嚼して、咀嚼して、すぐには飲み込めなかった。飲み込んでしまうのは、なんだかもったいなかった。噛むごとに広がっていく、苦くてやさしい味。ずっと一緒にはいられない現実と、それでもいま、一緒にいるという現実。
ぽとり、と雫が地面に落ちた。
あーあ、また早々に花火を駄目にしてしまったみたいだ。いよいよもってセンスがない。そう思ってこよりの先を見ると、未だきれいな火花が弾けている。あれ?
「やだ。こんな綺麗な月夜なのに、雨かしらねえ」
ママが素知らぬ風で言った。
わたしには視線を向けずに、ぽっかりと浮かび上がった、満月と呼ぶには少し足りないお月さまを見つめている。その様子があまりにも自然で、わたしもつられてそうなのかな?なんて暢気に答えて、月を見上げた。
そのときふと、自分の頬になにかが伝う感触があって、こすってみたらあら不思議、なぜだか濡れている。繰り返し繰り返し拭っても、まだ濡れていた。その間ママはこちらを見ない。わたしの不審行動にも、我関せず。
その代わり、一言だけくれた。
「雨」
「……え?」
「早く、止むといいわねえ」
雨なんか、降っていないのに。
直接的に慰めたり、やさしく気遣ったり、ママはそういう風にはしなかった。ただ、洗濯できなくて困るなあ、雨止まないかなあ、くらいの気軽さで、呟いただけ。それだけなのに、どれだけ言葉を尽くされるよりも、ほっとするのはどうしてだろう。
さっきから飲み込めずに咀嚼中のものに加えて、さらにとどめの言葉が飛び込んできて、口の中がいっぱいになる。けれど、やっぱりまだ飲み込みたくない。ずっとずっと咀嚼していたい。わたしはたぶん、ずっと、こういう風にわたしを受けとめてもらいたかった。
「……うん」
頷いてうつむいたわたしを、ママはちらりと見た気がした。気がしただけだ。それだけでいい。
わたしたちの手元では、線香花火が未だ消えずに火花を散らし続けている。生き残り最長記録まで、たぶん、あと十秒くらい。
20150927
(20200630再掲)