「じゃあまた明日ねー」
手を振って遠のいていく友人に、ひらひらと手を振り返す。
放課後、寄り道ばかりの帰路はもうすっかり夜の気配がしていた。煌々と空をあかく染める太陽が身を隠して、徐々に藍色が支配し始める、そんな頃合い。
明日は確か数学で当たるはずだったから、帰ったら早速予習しなくちゃいけないなあ、なんて憂鬱な気分でとぼとぼと歩き出した。
そもそも数学ってこれからの人生で一体なんの役に立つんだろう。学生なら、きっと誰もが一度は考える疑問だ。これを聞かれてすぐに納得のいく解答を出せる人間がいたら、是非とも会ってみたいと思う。文系にとって、数学はとんでもなく苦痛な科目なのだ。もうほんとになんなんだろうあれ、嫌がらせ?
「────」
ふと、呼ばれたような気がして振り返る。
電柱と街灯が立ち並んだアスファルトの道の先には、ぽつん、と男の子が立っていた。
真っ白な髪に、真っ白な肌。服装までもが純白で統一された、けれど瞳だけはきれいな紅色の、男の子。
一瞬、……コスプレ?とも思ったけれど、どこか人間離れしたその綺麗な容姿には、人工物によくある不自然さといったものはひとつも見当たらなかった。
呼ばれた、ような、気がしたのだけれど……。
生憎、こんな美少年の知り合いはいないので、私の勘違いだったらしい。目が合ってしまったから仕方なく曖昧に笑って、また歩きだそうと身を翻した。
「──もう、時間だ」
びくりと、足が止まる。
張り詰めた糸をぴんと爪で弾いたように空気を震わしたその声は、じっとこちらを見つめている男の子のもので。
おそるおそるまたそちらを振り返った。紅い瞳は、ゆらゆらと宙をさまよいながら佇んでいる。
「……行かなきゃ」
声変わり前のような、中性的な声が告げた。
持ち上げられた白く細い腕には、豪奢な金細工の懐中時計がぶら下がっている。その針は時を刻むこともなく、いや、それともああやって時間を表すものなのか、かちかちかちかちと音を鳴らしながら廻り続けていた。男の子の視線は、ただぼうっとそれの行方を追う。
「急がなきゃ。もう、時間がない」
ながい睫毛が降りて、紅い瞳が隠された。本当に白一色になってしまう。そして、それとほぼ同時に、なんの前触れもなくするりと懐中時計が白い腕から滑り落ちていった。きらり。金細工が閃く。
(──あ、)
途端、全身が傾いだ。
足元がぐにゃりと歪んで、猛烈な浮遊感が内臓を襲う。エレベーターに乗ったときの、あの気持ちわるい感覚を何十倍にもしたような、ジェットコースターが急降下する瞬間のような、そんな感覚。
(……あれ? もしかして私、いま、落ちてる?)
「ひ、────ぎゃあああうああああうあああ!!」
真っ暗な穴?らしきものに放り出されて、急速に離れていく夜色の空の端に、さっきの白い男の子が立っていた。
そして、能面みたいなその顔がわずかに動いた、たった一瞬。男の子が何か言ったのを、私は聞いた。
────急いで、アリス。
私、そんな名前じゃないんだけど。
思わず冷静に突っ込んだ私の意識は、どこかに勢いよく落下していく体と共に、いつの間にかブラックアウトして──ぶつりと途切れた。
20110308改稿
(20200630再掲)