エドアルド・ジンはかく語る


 

 

 ──待って!

 

 不意に飛び込んできた、その、子どもの声。

 

 ──そいつ、殺すの? だめだよそんなの!

 

 視線を向ければ目に入る、瞳いっぱいに涙を溜め込んだ蒼白い顔。

 

 ──人を殺すなんて、ぜったいだめだ!!

 

 一体どこの世間知らずなガキなんだと、そう思ったのが、最初。

 

 

 

 

 ガキの正体は“救世主サマ”だったらしい。

 魔物が急増し人々の生活が脅かされている昨今。女神アニュエラはその窮状を憂い、救世のために異世界から使徒を遣わしたもうた。それがあのガキである、とかなんとか。

 救世主という選ばれた人間だからなのか、単に異世界人全般がそうなのかは知らないが、ガキは普通の人間とはニオイが違った。魂のニオイとでも言うのだろうか、とにかく魔憑きとなってから随分鼻が利くようになったエドアルドにとって、あのガキは大層美味そうなニオイを発しているように思えたのだ。もちろん、どれだけ美味そうであろうとそれを欲しているのはあくまでエドアルドに巣食う“魔”の部分であって、エドアルド自身に食人の嗜好はない。だから別に食ってやろうなどとは思ってもみなかったのだが、初めてあのガキを目にした瞬間、突如沸騰し騒ぎだした本能に抗えなかった。

 ──食イタイ。

 それは「殺したい」に近い衝動だった。ガキのニオイが魂のものであるのと同じように、エドアルドにふって湧いたその渇きや飢餓感もまた魂によるものだったのだろう。このガキを殺せば、途方もない魂の欠落が満たされる。“魔憑き”となってからずっと埋められない、この穴が。きっと。

 そうしてエドアルドはガキに急襲を仕掛けた。久々に、心は躍っていた。

 

 結果は惨敗である。

 相手はもちろんガキ自身ではなく、ガキの護衛らしきでかいオッサンと、妙な力を使う優男だった。正直言って舐めきっていた感は否めないので完膚なきまでに負けた点には納得している。むしろ、エドアルドはその敗戦で完全に火がついていた。

 エドアルドはおそらく死ぬほど暇だったのだ。負けて地べたに這いつくばった瞬間に自覚した。己に根を張る“魔”に侵食され尽くす前に、まず暇に殺されてしまうのではないかというほど、とにかく刺激に飢えていたのだと。この渇きも餓えも、この途方もない欠落感も、退屈ゆえのものだったのだろうと。

 

 あのガキを殺せば。漠然と、エドアルドはそう考えた。

 決めたら即行動である。早速、ガキたちにつきまとうことにした。

 

 二度目の襲撃は、残念ながら相手が騎士見習いの小僧だったので、敢えなく圧勝してしまった。全くつまらない。その後助けに来たオッサンと一戦交えるも、街の自警団の連中までわらわら集まってきてしまい鬱陶しくなったので、結局逃走した。なんともすっきりしない終わり方である。

 去り際、あのガキが目に入った。初めて会ったときと同じく瞳いっぱいに涙をためて、傷だらけで倒れ伏す騎士見習いの小僧に駆け寄っていた。そういえば、あの小僧はエドアルドに敗けはしたものの、背後にいたガキは見事に庇いきったのだと気付く。当初の目的はガキを殺すことだったが、小僧を痛めつければ痛めつけるほどガキが泣きそうな声で喚くので、つい楽しくなって小僧ばかりを嬲ってしまった。

 ガキはエドアルドを見なかった。その視線はひたすら騎士見習いの小僧に注がれたまま。

 ──人を殺すなんて、ぜったいだめだ!!

 エドアルドを庇ったあの言葉は、たまたまだったのだろうか。

 

 三度目以降はいろいろ趣向を変えてみた。魔物の習性を利用してガキたちに差し向けてみたり、人に混じって裏で糸を引き罠に嵌めてみたり、たまに直球勝負で急襲を仕掛けたり、とにかくあの手この手で引っ掻き回してやった。その度に半泣きになるガキの顔は見ていて愉快であったし、オッサンや優男と殺し合うのも堪らなく楽しかった。エドアルドに棲みついていた退屈はすっかり鳴りを潜めている。渇きや飢餓感も、大分和らいでいた。

 しかし、それはそれとして“魔”の侵食は日に日に進んでいく。“魔憑き”の中でもエドアルドはまだ相当理性のある方だが、分別なく目の前のものすべてを破壊し尽くす獣と成り果てるのも、そう遠い未来ではないように思えた。

 そろそろ、か。

 初めてあのガキを目にした瞬間から、エドアルドは決めていた。楽しい時間はもう終わりだ。

 

 

 

 

 ガキを人質に取った。

 無用心にもガキが一人になったところを浚い、返して欲しくば自分と戦えとあのオッサンと優男にメッセージを残した。騎士見習いの小僧も最近はようやくモノになってきたので、相手をしてやってもいい。

 奴らが来るまで間もなくだろう。戦いに備え、“魔憑き”になる前から使っているらしい愛用の双錘を手入れしながらエドアルドが鼻歌を歌っていると、傍らに転がしておいた簀巻きが声を上げた。

 

「おまえ、どういうつもりだよ!」

 

 簀巻きの中身はもちろんガキである。珍しい漆黒の髪は、売り飛ばせばそれだけでも結構な金に代わるだろう。加えて世の中には少年愛好という崇高なご趣味の輩が大勢いる。その付加価値も併せると、このガキ一人の値段はとんでもない額に跳ね上がるはずだ。まあ、売るつもりは毛頭ないが。

 

「どういうつもり、だァ? んなの見たら分かんだろ。誘拐だよ誘拐。てめえは人質だ、救世主」

「誘拐って……ぼ、僕らはお金なんか持ってないぞ! 身代金なんか要求されても払えないからな!」

「いらねェよ金なんて。俺が欲しいのはそんなもんじゃねえ」

 

 飴色に透き通る双眸をじっと見据える。ぎょっとしたように目を見開いたガキは、蛇に睨まれたカエルのごとく体を強ばらせて動かなくなった。

 

「オレはてめえを殺したい。それだけだ」

 

 ガキからは例の美味そうなニオイが絶え間なく発されていて、エドアルドの理性をがりがりと獰猛に削ってくる。己の内の“魔”が囁いた。

 ──救世主ヲ殺セ。

 コロセ。コロセ。コロセ!

 

「じゃあ、なんで……すぐに殺さないの」

「何でだと思う」

「知らないよ……」

 

 まだだ、止まれと己に言い聞かせる。まだ殺すべきじゃない。殺すのはオッサンや優男とやり合ってからだ。理性はそう戒めるのに、内側に響く声は一向にやまない。エドアルドを見つめる怯えた瞳、震える声、そのすべてが衝動を加速させる。自分の中の人間らしさが音もなく死に、自分が何者でもない殺意のかたまりへと変貌する瞬間。途方もない『孤独』。絶望。

 

「悪ィな。オレにもよく分かんねェわ」

 

 エドアルドは、衝動のままガキに向かって双錘を振り下ろした。ガキの表情が恐怖に染まる。

 そうしてガキを潰さんとするエドアルドの攻撃を受け止めたのは、肉と骨のひしゃげる鈍いあの重み────ではなかった。

 

「──よお、魔憑き。よくもうちのちびを誘拐なんぞしてくれたな……流石にタダじゃ済まさねえぞ」

 

 待ち侘びた、例のオッサンたちのご登場である。

 受け止められた双錘を払うようにして後方へ飛び退きながら、エドアルドは高揚していた。その高揚が自身のものなのか、はたまた“魔”によるものなのかは、もう判別がつかない。そこまで混ざりあってしまっているのだという事実が、横たわるだけだ。

 とにかく昂りのまま戦闘へともつれ込み、オッサン、優男、見習い騎士、その他ちらほら、複数を相手取る。楽しかった。一瞬一瞬の命のやりとりが。相手の攻撃の軌道を読み、避け、反撃を食らわせるという一連の思考と運動が。愉しくて愉しくてしょうがない。自分が求めていたものはこれだと、心から思った。

 

 結果は、まあ、敗北である。流石にこの数を一度に相手するのは厳しかったようだ。しかし、後悔はなかった。このまま死んでもいいとすら思えた。むしろ、このまま死なせてくれと。

 エドアルドはもうじき完全に“魔”に食い尽くされる。そうなればエドアルドはエドアルドでなくなるのだ。だから、せめてまだ理性がある内に終わりを迎えたかった。魔憑きとなる以前の記憶は曖昧だが、おそらく以前の自分も戦いに身を置く人間であったのだろう。それなら、戦いで命を落とすのが一番自然なことのはずだ。

 最期くらいは、自分らしく。

 自らに残ったなけなしの人間くささが可笑しくて、オッサンと騎士見習いの小僧に剣を突き付けられながらもつい笑ってしまう。

 

「待って!」

 

 しかし、あのガキと来たら。

 

「だから、人は殺すなってば! 何回言ったらわかるんだよバカロイ!」

「誰が馬鹿だ! ……っておいトーヤ! お前は下がっていろ、危ないだろ!」

「バカロイがその剣引っ込めたら下がってやってもいいよ!」

「何を馬鹿な……というか馬鹿馬鹿言うなバカトーヤ!」

 

 簀巻きから脱したらしいガキと、激昂してエドアルドに剣を向けるのを忘れた小僧が、目の前で馬鹿の応酬をしている。今まさにエドアルドに刃を突き付けているオッサンも、あんなもの無視してしまえばいいというのに、ガキが待てと言ったのを素直に聞いて警戒は解かぬまま静止していた。

 

「ショーグンも! 殺しちゃだめだ! その剣どけてよ!」

「そうは言ってもなあ……トーヤ。こいつをここで逃がせば、また今回みたいな事をやりかねねえぞ?」

 

 ちらりとエドアルドに視線をやったオッサンは、戦士の目をしていた。常に優先すべきものを考慮し、それのためなら外敵を殺すことも厭わない、冷酷でありながら温度のある目だ。好ましい。魔に憑かれる以前のエドアルドも、あんな目をしていたのだろうか。

 

「次またこいつが襲ってきたら、今度こそお前は殺されちまうかもしれない。もちろん俺たちはお前の護衛だから何があっても守るつもりではいるが、万が一にも、お前を危険にさらす訳にはいかないんだよ。危険の芽は摘み取っておきたいんだ……分かってくれ。な?」

「わっ……わかんないよ!!」

 

 金切り声で叫んだガキに、オッサンが弱ったように頭を掻く。少し離れた所にいる優男が呆れたように溜め息を吐き、肩を竦めたのも見えた。

 なんつー聞き分けのねえガキだ。エドアルドは他人事ながら苛々し始める。双方の主張を聞くにオッサンの意見は至極真っ当である。殺される予定のエドアルド自身にも充分納得のいく理由だ。対して、ガキの方はただただ癇癪を起こして喚いているだけ。

 

 そこでふと、このガキは自分の命がかかっているということを理解していないのではないか、という思いが頭を過った。

 ──ならば、分からせてやらねばなるまい。

 決めれば行動の早いエドアルドである。戦いで疲弊した体に鞭打って、ガキの説得に集中を散らせたオッサンの大剣を即座に弾き飛ばした。そしてガキに肉薄する。再び双錘を薙いだ。

 

 どん、と鈍い手応え。

 

「エィ・レイ────《ヤスタファ》」

 

 錘はガキには届かず、宙で止まっていた。目には見えないが、厚い壁のようなものに阻まれている。ちらりと視線をずらすと、あの優男が本を片手にこちらを手で指していた。

 ──例の、妙な力か。本人は魔法だとか何だとか言っていたが、眉唾である。

 

「……これで分かったか? 救世主サマよォ」

 

 さっきまでお仲間と小うるさく吠えていたガキが、腰を抜かしたように地面に座り込んだ。エドアルドを凝視する目は先ほどと同じかそれ以上にすっかり怯えきっている。成功だ。

 そうだ、思い知れ。お前の目の前にいるのは、今お前を殺そうとした敵なんだ。

 

「今オレを殺さねェと、オレはまたお前を殺しに来るぞ。殺すまで何度も、何度も、何度もだ。……なあ、そんなん嫌だろ? 怖ェだろ? それなら、殺すななんて甘えたこと言ってねェで、とっととオレを殺せ」

 

 ────何を躊躇うことがある。

 

 そう吐き捨てた声に、苛立ち以外の何かが滲んだことに気付いた者はいただろうか。

 いなくていい。エドアルドは、ただガキの甘ったれた考えに苛立っただけなのだから。

 

 戦場で人を殺すなだなんて、死ねと言っているようなものだ。今殺さなければ明日やられるのは自分かもしれないというのに。このガキはきっと、その恐怖も、危機感も、焦燥も、感じたことがないから簡単に殺すなと言える。だから分からせてやった。目の前にある死の恐怖──エドアルドを排除しなければ、お前が死ぬのだぞ、と。

 

「そ、それでも……だめだ」

 

 かさついた掠れ声は、一瞬聞き取れなかった。

 

「……あァ?」

「ひ……人を殺すなんて、ぜったいにだめだ!!」

 

 ──人を殺すなんて、ぜったいだめだ!!

 

 初めて会ったときのあの言葉が、繰り返される。

 飴色の瞳が涙をいっぱいにためて、エドアルドを見ている。

 

「────僕は、僕の仲間に、人殺しになってほしくない!!」

 

 

 

 

 あれから、ガキはどうしたんだったか。

 確か、そのまま号泣し始めて場の収集がつかなくなったのだ。呆れ返りすぎて最早無表情になった優男がガキの首根っこを掴んで引きずりながら、エドアルドに「今回も見逃してやる。行け」とだけ告げたので、結局エドアルドは生き残った。死ねなかった、と言った方が正しいだろうか。

 

 それからはしばらく大人しくしていた。傷の治りは魔憑きゆえか早い方で、もう大部分は癒えていたが、残り少ない“エドアルドでいられる時間”を思考することに当てたくなったのだ。

 あのガキは無知すぎる。お前のお仲間はとっくに人殺しだぞと、教えてやりたい。騎士なんてものはもともと人殺しが仕事のようなものだし、エドアルドのよく利く鼻はあの優男や商人なんかも殺しの経験があると訴えている。別に、特別なことではない。そういう世の中なのだ。今でこそ急増した魔物に注目がいってはいるが、人間同士の争いだって絶えない。むしろその方がずっと凄惨だろう。犯罪に巻き込まれ、正当防衛で殺人に至る場合もある。誰もが綺麗な手のままでいられる訳ではないのだ。

 

 ──それでも……だめだ。

 

 耳の内側で声が響く。

 “魔”のものではない。あのガキの声だった。

 

 ──人を殺すなんて、ぜったいにだめだ!!

 

 それでも尚、お前は言うのか。

 殺すなと。人殺しにはしたくないと。

 

 あの時確かにお前を殺そうとした化け物をすら、”人”だと。

 

 エドアルドは分かっていた。自分がなぜ、あのガキたちに執拗につきまとい、ちょっかいを掛け続けたのか。

 暇だったというだけではない。ガキを殺したかったというだけでもない。オッサンたちと戦うのが楽しかったというだけでもない。自分の最期の舞台を用意したかったというだけでもない。

 

「……人、か……」

 

 本当は、ずっと、分かっていた。

 

 

 

 

20160401

(20200630再掲)