拉致られる


 

 チェシャ猫に聞きたい。

 一体これのどこが、私にとって『天使にも悪魔にもなり得るもの』なんでしょうか。

 

 

 

 チェシャ猫に促されて向かった先には、ひとつの街が存在していた。

 古めかしい石畳が広がり、大道芸がそこかしこで披露されている賑やかな街並み。至るところから聞こえてくる陽気な音楽のおかけで、行き交う人たちも楽しそうだ。

 大通りと思しき道には、ずらりと屋台が並び立ってバザーをやっているようだった。私は生憎お金を持っていなかったから、声をかけられても買うことが出来なかったんだけど……

 

 

 ──とかなんとかそんなことを考えていたら、不意に細い路地裏に引っ張りこまれた。

 

 

 ごりっ、とこめかみに突きつけられた、黒光りする『それ』。

 映画かドラマくらいでしか見たことのないそれを、まさか自分に向けられる日が来ようとは思ってもみなかった。というか、えっ? 展開がいきなりすぎてちょっと訳がわからないんだけど。

 

「おい」

「え、あ、はいっ」

「貴方が白ウサギの金時計を持っているのは分かっている。死にたくなければ、大人しくそれを此方に寄越せ」

「……は?」

 

 き、金時計?

 思わず聞き返すと、『それ』の持ち主である男のひとは、苛立ただしげに舌打ちをした。ちらりとそちらを盗み見する。男のひとは私の斜め後ろに立っているらしくて、高そうな革靴のつま先しか見えなかった。

 

「しらを切る気か」

「そっ、そういうつもりじゃ……」

「ではさっさと出せ」

「いや、でも、」

 

 パン、と辺りに乾いた破裂音が響く。

 音楽にまぎれて、けれどしっかり火薬のようなにおいを残したそれに、私は全身の血がひいていくのを感じた。足元を見ると、丈夫そうな石畳が小さく抉れている。やっぱり、いま、撃った……?! 撃ったの?!

 

「早くしろ。俺は気が短いんだ」

 

 こめかみに押しつけられている『それ』の正体が、これで確定してしまった。────銃だ。いや、わかってたけどまさかそんな。そこで、私はようやく気付く。

 あ、このひと強盗なんだ、と。

 

「(お、遅すぎるよ私いいいいい!)だっ、出します! 出すから、その、うううう撃たないでください……!」

「金時計さえ手に入れば貴方に危害は加えない。さあ、早く出せ」

 

 銃は二丁あるらしい。こめかみに突き付けられているのとは別の銃で腕のあたりをかるく小突かれて、思わず視界がにじみかけた。こっちの世界に来てから、私、ちょっと泣かされすぎじゃないですか。誰に言うでもなく溜めこんできた文句が、ふつふつと湧きあがってくる。しかしながら、唯一好きなだけ文句を言い散らかすことのできる相手は私を置いてどこかに行ってしまっているわけで。

 おのれチェシャ猫……まさかこの男が『天使にも悪魔にもなり得るもの』なんて言うつもりじゃないでしょうね! 明らかに悪魔にしかならないよばか!

 

 ぐしぐしと零れそうになる涙を拭って、相手がさっきから要求してくる金時計をさがした。最初に言われたときは本当になんのことかわからなかったのだけれど、そういえば私は持っているのだ。あの、白い男の子が落としていった金時計を。

 

 それにしても、どうしてみんなこれを欲しがるのだろう。こないだの追いかけっこのときも不思議だった。だって、本当になんの変哲もないただの時計なのだ。というか、針が時間を刻むでもなくぐるぐるぐるぐる回り続けているだけなので、むしろ壊れてて使えないくらいだし……。なのに、どうして?

 まあ、売ったら高そうだとは思うけれども、とぼんやり考えながらポケットをさぐる。そうして引っぱり出した金時計は、かしゃん、という綺麗な金属音をたてた。相変わらず針はぐるぐると回りっぱなしだ。

 

「こ、これのこと、ですか……?」

「見せろ」

 

 言われるがまま手渡すと、そのとき初めて男のひとのつま先以外の部分が視界に入る。清潔そうな白い手袋に覆われた手。こんな手が銃を握っているのかと思ったら、ちょっと世の中が怖くなった。へ、平和って大切ですね……!

 

「……おい」

「うあはいっ」

「確かに白ウサギのニオイは残っている。奴の金時計には間違いないだろう。……だが、」

 

 変な声が出たことにはなんのツッコミも入れられずに、次にはコツコツと石畳を叩く音がして、それが男のひとの足音なのだと悟る。

 正面に回ってきたそのひとは、真っ黒なスーツに身を包んでいた。一瞬、チェシャ猫といいこのひとといいこの世界の人間は黒い服装が好きなのかとも思ったけれど、大通りのひとたちは普通にカラフルな格好をしていたので、どうやら違うらしい。いや、まあ、今はそんなことどうでもいいんだけど。

 

「これはどういう事だ?」

「え、…な、なにがですか……?」

「時計が壊れている。針が進んでいない」

「……ええ?!」

 

 思わず大きな声が出た。勢いで顔も上げてしまって、ようやく相手の顔を見るに至る……はずだったが、残念ながらそれは無理だった。眉間に銃を突きつけられたこともそうだけど、何よりその男のひとの頭には、大きなシルクハットが深々と被さっていたから。微かに覗く眼光は鋭く、射殺されそうだと思わず身が竦んだ。

 

「そっ、そんなはず、ないです。さっきはちゃんと動いてたしっ……」

「だが現に今、針は止まっている」

「み、見せてください」

 

 目の前に差し出された金時計は、確かに針が動いていなかった。さっきまであんなにぐるぐる回ってたのに! こんな短時間で壊れることがあるんだろうか。私もこのひとも、特に手荒に扱ってはいないと思うんだけど……

 

 すっと手を出して、時計に触れる。特に警戒もされずに触らせてもらえたのは、私がここで奪って逃げても捕まえる自信があるからなのだろうか。綺麗な金細工を辿るようになでると、かち、という小さな音が鳴った。

 ………え?

 

「……動い…た?」

「なっ…」

 

 かち、かちかち、かち。

 再びぐるぐると回りだした針に、私たちは呆気にとられた。男のひとは、お前一体何をしたんだと言わんばかりの目でこちらを見つめてくる。いやいやいや、私なんにもしてないです! ぱたぱたと両手を振って、ついでに首も振った。そうしたら、時計に視線を落とした男のひとがぽつりと呟く。

 

「……また止まったぞ」

「ええーっ?!」

 

 どうなってんのその時計?! 訳がわからなくて頭を抱えた。これもう素直に時計屋さんとかに持っていって直してもらった方がいいんじゃ……と相手が強盗であることをすっかり忘れて、進言してみる。男のひとは何秒か黙ったあと、私に金時計を差し出した。曰わく、触れ、と。

 

「え、……え? なんでですか……?」

「いいから。触ってみろ」

 

 はあ……、と首を傾げた状態で時計に触れる。すると、かち、と何故かまた音が鳴った。かちかち、かち、かちん。回り始める針。どんだけ気まぐれなのこの時計?! チェシャ猫並みだよ!

 

「……やはりそうか」

「……はい?」

「この時計、貴方が触れていないと動かないらしい」

「…………はいいいいい?!」

 

 ああ、もう、私今日これで何回大声出してるんだろう。それなのにどうして誰も助けにこないんだろう。……いや、わかってる。きっとこの音楽のせいですよね。大音量だもんね。街中にあふれる陽気な音楽が、少しだけ憎い。

 というか、そもそもそれ私のものじゃないのに私が触ってないと動かないっておかしくないだろうか。現に白い男の子が持ってたときはぐるぐる回ってたし……。そう反論しようと口を開いたら、眉間に突きつけられたままだった銃がごりっと一層強く当てられる。そういえば私、ものすごい状況で会話してたんだな。我ながら感心する。

 

「チッ……面倒だが、仕方がないな」

「(舌打ちされた?!)……あ、あの……」

「貴方には俺と一緒に来てもらう。邪魔ではあるが、金時計を動かす為だ」

 

 立て、と促されて、けれど頭は真っ白だった。叫ぶ余裕さえ、ゼロ。

 い、一緒にってまさか、この強盗さんと…? 今まさに銃を突きつけてくるこのひとと、一緒に、行動……?!

 

「──ち、チェシャ猫のばっかやろう……!!」

 

 押し殺すように呻く。

 握りしめた拳はまさか目の前の男のひとに振り下ろす訳にもいかず、とりあえずまた会ったときはチェシャ猫を一発殴ろうと心に決めた。

 

 “私にとって『天使にも悪魔にもなり得るもの』がいる”

 

 もう一度聞きたい。チェシャ猫、一体このひとのどのへんに天使の要素があるの?!

 

 

 

 

20110308改稿

(20200630再掲)