「なんでっ……私がっ、こんなっ、目に!」
会わなきゃならないの!とまでは言い切れずに、あえなく転倒。どっしゃん!と盛大にスライディングした先には、運が悪くも泥で抜かるんだ地面があった。身につけた水色のエプロンドレスがみるみるうちに泥水を吸っていく。ああ、もう、最悪だ。ぜえぜえと忙しなく呼吸を繰り返して、私は少し、…いや、だいぶ泣きたくなった。ほんとになんでこんな目に会わなきゃならないの。右頬に触れた泥の地面がやけに冷たい。世の中、ぜーんぶこの地面みたいに冷たすぎる。
だって、ちょっと聞いてほしい。私はなんにも悪くなかったのだ。ただ、足をすべらせて池?らしきものに落ちちゃって、同じようにたまたま落ちたひとたちと「じゃあ服を乾かすついでにかけっこをやろう!」って話になって、ひたすらぐるぐるぐるぐる、誰が勝ちで誰が負けかもわからないまま走って、疲れたら少し休んで、また走って、そんなことを延々と繰り返してから、最終的に勝者とかよくわかんないからとにかくみんなに賞品を贈ろう!ってなって……
そして、その賞品として寄越せとねだられたのが、なぜか私のポケットに収まっていた金時計だった。
「……そもそも、私のものじゃないんだから渡せるはずないじゃない……」
これは多分、あの時の白い男の子のものだ。細い腕からするりと金時計が落ちていった瞬間を覚えている。
よくわからないけど、私が穴?らしきものに落ちたときに、きっと一緒に落ちてきたんだ。なら、ちゃんと返してあげないと。だから、みんなには渡せませんと言って断った。そうしたらあのひとたち、今までの和気あいあいとした空気をすっ飛ばして、野犬よろしく襲いかかってきたのだ。「寄越さないなら奪い取るまでー!」とか言って。「白ウサギの手掛かりだー!」とも言ってたけど、意味はよくわからない。とりあえず、私は逃げなきゃしょうがなくなって、とにかく走って走って走って走って走りまくって、今に至る、と。
お、思い返してみたらまたどっと疲れが……
「おや、そんな所で寝たら風邪をひくよ、アリス」
泥だまりから顔を上げると、そこには私を見下ろすように男のひとが立っていた。
「──チェシャ猫」
名前を呼ぶと、唇が三日月のようにひしゃげる。覗いた歯はどれも鋭く尖っていて、まるで獣のようだった。
『にやにや』。笑顔に擬音をつけるなら、まさしくこれだと思う。
「泥まみれだね、アリス」
「……好きでこんな風になったわけじゃないよ」
ひょこん、とチェシャ猫が被っているフードの猫耳が面白げにはねた。これってフードに猫耳が付いてるのかな。それとも猫耳の上にフード被ってるんだろうか。ちょっと気になる。
藍色をずっとずっと濃くして限りなく黒に近付けたような色の髪が揺れる。腰を曲げて屈んだらしい、金色の瞳がぐっと眼前に迫った。
「追いかけ回されたくらいで不貞腐れたらいけないよ」
「……見てたの?」
「見てたよ」
「なら助けてよ!」
「ボクがいなくてもちゃんと逃げ切れたじゃない」
「結果論じゃなくって! ……私ほんとに……ほんとに、殺されるかと思ったんだからーっ!」
そのへんの泥をひっ掴んで、チェシャ猫の方にぶん投げる。ただ悲しいかな、水気がありすぎて飛距離は全然伸びなかった。軽くひょいと避けられてしまう。
その途端に、悔しさや怖さや怒りといったやり場のない感情がぶわわっと涙として溢れ出した。ぽたり、ぽたり。涙の粒が泥水に吸い込まれては消えていく。
「アリス、泣いてるのかい?」
「泣いてないよ!」
「でも目から水が出てるよ」
「……泥水です!」
「それはまあ、確かに顔まで泥まみれだけれどね」
真っ黒なローブから伸びてきた痩せて骨ばった手が、私の頬に触れる。泥だまりに伏したせいで頬にべったりとついていた泥を、指先が丁寧に払ってくれた。無駄に鋭い爪が目に刺さりそうで、ちょっと怖い。
「ほら、キレイになったよ。アリス」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「……でも、チェシャ猫が最初から助けてくれれば汚れることもなかったよ」
「そんな事より」
「無視なの?!」
「早く帰りたいなら、こんな所でぐずぐずしている暇はないよ」
「え」
「この間も言ったでしょう? キミが元の世界に戻るためには、まず白ウサギを探さないとって」
そういえば、そんなことを言われた気もする。
あの時、突然穴に落とされてたどり着いたこのちょっと変な世界で、一番最初に出会ったのがチェシャ猫だった。ここが不思議の国という世界であることも、白ウサギを見つければ願い事をひとつ叶えてもらえるということも、教えてくれたのは彼だ。だけど、世の中にはアフターケアという言葉もあるわけで。
いいだけ言って、それじゃあ頑張ってねアリス、とにやにや笑いだけ残して消えられた日には、もうほんとに呪ってしまおうかと思った。説明不足もいいところだ。そのおかげで、訳もわからないまま右往左往したあげく、死ぬほど追いかけ回される羽目になったのだし。
「……そんな中途半端なアドバイスより、一緒についてきてくれた方がよっぽど助かるのに」
「それは出来ないよ」
「どうして?」
「どうしても」
「……あっそう」
「代わりにイイコトを教えてあげるよ、アリス」
「はあ」
「この先をまっすぐ行くと、キミにとって天使にも悪魔にもなり得るものがいる」
「……え、」
「天使であれば縋るといいし、悪魔であれば逃げるといい。どちらにしろ、現状を変えたいなら行動するしかないよ」
愉しげに目が細められたのと同時に、ぐにゃり、とチェシャ猫の姿が歪んだ。黒のローブが暗がりにどろどろととけていく。……まただ。また、いなくなってしまうつもりなんだ。
「待って!」
「さあ、お行き。キミの願いのために」
ささやきがこだまして、そこには『にやにや笑い』だけが残された。はじめて会ったときと同じ。不親切もいいところだ。腹が立ったので、また泥をぶん投げてやった。べちゃりと『にやにや笑い』に泥がへばりつく。けれども、『にやにや笑い』は所詮『にやにや笑い』なわけで、チェシャ猫本人ではないのだ。全く、ややこしい。
「……はやく帰りたい」
呟いて、ぽたりと涙を流す。
ふらふらと立ち上がりながら、すっかり泥まみれのエプロンドレスを見下ろした。とりあえず裾を絞ってみる。だばーっと吸い込まれていた泥水が流れ出て、ああ、これも私の涙なのだと得心した。
顔を上げる。そして、一歩を踏み出した。
どうかこの先にいるのが天使でありますように。心から祈りをささげて、私は涙を拭った。
20110308改稿
(20200630再掲)