「はい、どおぞ」
目の前に差し出されたカップを見つめて、小さくありがとうございますと呟く。いえいえ、どお致しまして。ほやほやと笑いながらそう答えたその人は、もう一つのカップを手にしたまま、私の正面の椅子に座った。
丸いテーブルを挟んだだけの距離は存外近い。だらだらと尋常じゃなく流れる汗が、私がいま如何に余裕がないかというのをありありと表していた。どうしようどうしようどうしよう。ゆらゆらと揺れる琥珀色の液体をひたすらじっと見つめていたら、優雅にカップを傾けていた相手が不思議そうに首を捻った。
「どうしたの? 紅茶は見てても減らないよう? ……あ、それとも、きみの故郷では紅茶は飲むものじゃなくて観賞用?」
「えっ、あ、いや、違います! 普通に飲み物ではあるんですけど……」
「そっか、よかったあ。やっぱり紅茶はおいしいものね」
帽子屋はコーヒー派だから、ぼくが淹れても飲んでくれないんだよねえ。
何とはなしにこぼされたその言葉、より正確に言うなら『帽子屋』というそのキーワードに、思わず肩がびくんと跳ねた。それを見て、その人は一瞬驚いたように目をまるくする。けれど、すぐに破顔した。くすくすというか、ふやふやというか、ほにゃほにゃというか、とにかくそんな感じの気が抜けるような笑い方をする人だなと、思う。眠たげで垂れ気味の目や、寝癖なのかくせっ毛なのかよく分からない髪(しかも色はカスタードクリームみたいに甘いのだ)。なんというか、いちいちがあの黒いスーツの男と違いすぎて、本当に二人は仲間なのかと疑ってしまう。
彼は、眠りネズミと名乗った。スーツの男はどうやら帽子屋と言うらしくて、私をここに連れてきてからすぐにまた出て行ってしまった。
──あの人と二人っきりの時は、正直地獄でしたと言うほかない。まず、最初に宣言されたのが「俺の半径1.5メートル以内から少しでも離れれば即座に貴方の頭蓋を撃ち抜く」だった時点で、もうすでに泣きたかったのだけれど。
「帽子屋なら、当分帰ってこないから安心していいよう」
「ほ、ほんとですか?!」
「ふふ、うん、ほんと。でも、そんなに怖かったんだあ」
「こっ、怖いなんてもんじゃないです……! いつ撃ち殺されるかとひやひやしっぱなしで……」
常にわき腹にひんやりした銃の感触を感じながら歩いていた時は、まるで生きた心地がしなかった。出来ることなら周囲の人たちに、この人強盗です!と声高に告発したかったくらいだ。そんなことしたら即行で撃たれるだろうから実際には出来なかったけど、せめて一人くらいは私の状況に気付いてくれても良かったんじゃないだろうか。あれだけ引きつった顔して腕組んでる男女が恋人同士に見えたなら、彼らの視力はかなり危ういと思う。というか、視力以前の問題だ。
「ごめんね、ほとんど拉致みたいな感じで連れてきちゃったんだもんねえ。帽子屋も根は悪いやつじゃないんだよう。ただちょっと、白ウサギ絡みだと手段選ばないとこがあるだけで……」
「……あの、ちょっとお聞きしたいんですけど」
「うん?」
「どうしてみんな、そんなに白ウサギに会いたがるんですか?」
思い切って、そう尋ねた。あんな犯罪まがいのことをしてまで私が持っている金時計を得ようとしたのだ。最初に池で出会った彼らもそう。どうやらこの時計が白ウサギにたどり着く手掛かりになるらしいことは、今までの流れでなんとなく分かった。じゃあ、問題はどうしてみんなが白ウサギに会いたがるのか。
「うーん、そうだなあ。……きみは、白ウサギが願い事を一つだけ叶えてくれるって話、知ってる?」
「あ、はい。前にそんな話を聞きました」
「そっか。まあ、結構有名な話だからねえ。最近じゃみーんな白ウサギを探しまくってるよう」
「……願い事を叶えてもらうために、ですか?」
「うん、でも、大体はあれだねえ。大金持ちになりたい!とか、不老不死になりたい!とか、そんな感じだねえ」
「はあ……」
「でもね、帽子屋は違うよ」
笑っているのか眠いだけなのか分からないけれど、すうっと糸みたいに細められた目がカップの湖面を見つめた。縁を指で辿る仕草は、なにかを懐かしむようでいて、振り解こうとしているようにも見える。
「どうしてもね、叶えたい願いがあるんだって。誰を犠牲にしても、どんなに傷ついても、叶えるんだって決めた願いが」
「……」
「きみにもある? そういう譲れない願い事」
聞かれて、ふとチェシャ猫の言葉を思い出した。
『元の世界に戻るためには、まず白ウサギを見つけないと』
──元の、世界。
そうだ、私も、白ウサギに会わなくちゃならない。帰らなきゃいけないんだ、元の、平和な世界に。
あります、と答えた声が少しだけ震えていた。ぎゅうと固く握りしめた手のひらは、さっきの緊張と恐怖から解放されないままずっとその状態だったせいで、すっかり真っ白になっている。きっと顔色もこんな感じなのだろうなと考えていたら、ぽん、とその手に別のそれが乗せられた。顔を上げて、相変わらずのほやほやした笑顔を見返す。手がかわいそうだよう、と彼は言った。
「こんなに小さな手なのに、そんな力入れたら傷ついちゃうよう。ね?」
「あ……は、はい」
「あと、敬語も使わなくていいからねえ。帽子屋がきみも一緒に連れてくって決めたんだから、ぼくらはもう仲間だもの」
「……なかま?」
「うん、仲間だよう。白ウサギ捜索同盟だねえ」
なかまなかまー、と掴まれた手をぶんぶん振り回される。握手のつもりだろうか。それにしてはちょっと力が強いんじゃ………いや、ていうかいだだだだだ肩外れる肩外れる勘弁して!
若干涙目になったけれど、どうしてか、やめてくださいとは言えなかった。こっちの世界に来て、まだ数日。されどもう数日経っている。
誰かにやさしくされたのは、これが初めてだった。
20110308改稿
(20200630再掲)