隣に外国人留学生が引っ越してきた。

 なんとかいう国の出身らしいが、やたら長くて覚えられなかった。

 一応お互い自己紹介をしてみたものの、案の定名前もくそ長い。なので、あたしは暫定的にそいつをインドと呼んでいる。なんか、インドっぽい顔だったし。

 

 インドは日本語がえらく流暢だった。

 そりゃ注意深く聞いてれば変なところはたくさんあるけど、でも日本語力においてはあたしとさして変わらない気がする。外国人はハングリー精神が違うのよ、とはあたしの母の言だ。

 

 そんなこんなで引っ越してきた初日、インドはお隣さんであるあたしにわざわざ挨拶をしにきた。

 ハジメまして、今日隣に引っ越して来ました、よろしくお願いしマス。そう言ってインドが差し出したのは、カレーだった。……蕎麦じゃないのか。やっぱり文化の違いって顕著だ。

 どうも、と受け取ると、学生ですカ? と訊かれた。黙って頷いたら、〇〇大学? とさらに続けて問われる。訝しみながらも、そうだけど、と肯定した。そうしたら、インドは嬉しそうに顔を綻ばせて、ワタシもなんでス、と言った。

 どう答えたらいいのかわからなくて、はあ、と気の抜けた返事が出る。インドは大して気にしていないようだった。

 大学で会えるといいデスね。それだけ言い残して、インドは隣に引っ込んでいった。

 

 

 

 次の日、ゴミを出しに外に出ると、インドとばったり出くわした。

 あ、どうも、オハようございマス。ぺこりと頭を下げると、にこやかに挨拶をされた。愛想がいい外国人だな。なんかもっとツンツンしてるのかと思った、顔、インドだし。

 

 大学の前に会っちゃいマシタね。突然インドが言った。まさか話し掛けられるとは思っていなかったので、思い切りびくりと肩が震えてしまう。

 ……しまった、今のはかなり失礼だったかも。別に話し掛けられるのが嫌だったわけじゃないんだよ、と心の中で言い訳をする。口に出さないなら、そんなのただの自己満足にしか過ぎないのに。

 それでもインドは、やっぱり気にした様子は見せなかった。驚かせてスミません。申し訳なさそうに一礼する。

 どこまで礼儀正しい外国人なんだ。あたしは感心した。同時に、さっきのは昨日の捨て台詞に被せた軽口だったのだと気付く。

 大学で会えるといいですね→でもその前に会っちゃった、あはは、みたいな。

 なるほど、高等なコミュニケーションだ。すごいぞインド。

 

 それからふたりで細々と会話をして、別れた。

 大学ではインドを見つけることは出来なかった。

 

 

 

 そのまた次の日、食堂にインドがいるのを発見した。

 あ、と思って話しかけようと口を開きかけたが、あたしはその時数人の友達と一緒だったから、なんとなくやめた。

 

 席について、濃いめの味付けのカレーを頬張りながら、なんで話しかけられなかったんだろう、と考える。

 浅黒い肌、掘りの深い顔立ち。見るからに留学生っていう風貌をしているインド。周りには誰もいなくて、ひとりでぽつんと食事をしていた。

 もしかしたら、あたしは恥ずかしかったのかもしれない。インドと知り合いなんだってことを知られるのが。そう思ったら、自分がものすごく嫌なやつのように思えて、無言でカレーをかき込んだ。

 インドがくれたカレーの方が、数倍おいしかった。

 

 

 

 その週の日曜日、あたしがバイトをしているコンビニにインドがきた。

 あたしは丁度休憩中だったから裏に引っ込んでたんだけど、おんなじバイトの子がこそこそ話していたのを聞いた。ね、なんか、今来てる外国人の客、やばそうじゃない? そんな内容の話だった。

 続けて、この前ニュースに出てた犯人と顔似てるしねー、ともうひとりの子が言う。そのニュースなら、あたしも見た。でも全然似てない。似てるとするなら、肌の色とか掘りの深さとか、そんくらいだ。どこが似てんだよ。あたしは大人気なくむかついた。でも、口には出さなかった。その代わり、休憩を切り上げてレジに出る。

 商品を持ってきたインドと鉢合わせした。あ、おトナリの。驚いたようにインドが呟く。

 日本人が白人をとりあえずアメリカ人だと思ってしまうのとおんなじレベルで、外国人は日本人の顔を見分けられないと聞いたことがある。でも、インドはあたしの顔を覚えていた。あたしも、何気にインドの顔を覚えていた。あんな犯人なんかとインドが、一緒の顔のはずない。

 

 いらっしゃいませ。そう言ったあたしの声は、ちょっとかすれていた。インドが心配そうに、風邪ですカ? と訊いてくる。ちくしょう、いいやつだ。

 なんでもない、カレーおいしかった。そう伝えたら、嬉しそうに、インドが笑った。

 

 

 

 次の日の、つまりは月曜日、また大学でインドを見かけた。

 今度は道に迷ってるようで、並木道をきょろきょろしながらうろついていた。

 周りのひとは、明らかに困っているインドに対して何もしてくれない。むしろ、話しかけられないように避けて歩いていた。

 

 インドは日本語ぺらぺらだけど、見た目だけ見たら全然話せるようには見えない。街中で外国人に英語で道尋ねられてテンパるのと、たぶん同じ感覚。訊かれても答えられないし、答えられない自分もかっこ悪い。そう思って、みんなインドを避けている。

 今ここでインドが日本語ぺらぺらだと知っているのは、あたしひとり。

 でも、生憎あたしはまた数人の友達と一緒だった。

 どうしようかと思って立ち止まっていると、隣の友達に、どうしたの? と訊かれた。どう言ったらいいかわからなくて、ごにょごにょしながらインドの方へ首を向ける。

 

 そうしたら、ばちん、とインドと目が合った。うわ。思わず反射的に目を逸らす。逸らしてから、さあっと全身の体温が下がるのを感じた。

 しまった、今、絶対インドのこと傷つけた。おそるおそる、もう一度目を向けてみる。

 

 インドは、もうそこには居なかった。

 

 

 

 土曜日、部屋でごろごろしていたあたしをインドが訪ねてきた。

 カレー、作りスギてしまったので、おすそ分けデス。そう言って、差し出してきたのはタッパーに入ったカレーだった。

 受け取ってから、ありがとう、と蚊が鳴くような声で礼を言う。でも、ごめん、とは言えなかった。あれから数日経ってるし、今更言うのもおかしい気がした。

 そのままあたしが何も言わないので、インドは困ったように、それじゃあお邪魔しまシタ、と頭を下げて去っていく。

 インドの部屋はすぐ隣だから、気付いたらインドはもう自分の部屋のドアノブに手を掛けていて、あたしは慌てて呼び止めようと口を開いた。

 

 そこで、ふと気付く。

 あたし、インドの名前、覚えてない。

 

 まさか、インド!と呼びかけるわけにもいかず、あたしは黙って家の中に引っ込んだ。

 インドのくれたカレーは、相変わらずおいしかった。

 

 

 

 次の日、バイトに行こうとして外に出ると、隣のさらに隣に住むおばちゃんと出くわした。

 あ、おはようございます。適当に挨拶すると、あらまーおはようさん! と常に変わらないハイテンションで応えられた。あたし、このおばちゃんちょっと苦手。

 

 おばちゃんは突然あたしに近寄ると、ずいっとぶしつけに顔を寄せてきた。あんた、大丈夫だったかい?

 おばちゃんがいつにも増して神妙な顔つきだったので、なにがですか? と聞き返す。何がって、例の引っ越してきたガイジンだよ! 興奮気味のおばちゃんの言葉に、クエスチョンマークが増加した。

 ガイジンって、インドのことだよね。でも、インドのなにが大丈夫なのか、あたしにはとんと分からない。

 だって見るからに怪しいじゃないの、とおばちゃんが言った。

 見るからに? あたしはさらに訳が分からなくなった。最近何かと物騒でしょ、だからあんたも気をつけた方がいいわよ、ああいうのは特に危ないから。訳知り顔で、おばちゃんはこそこそと呟く。

 危ないってなんですか、と重ねて訊いた。だんだんと、頭に血が上っていくのが分かる。つい最近もガイジンが若い女の子を襲ったっていう事件あったじゃないのよ、と親切を装った野次馬根性まるだしで、おばちゃんが続けた。

 

 まただ。また、他の外国人とインドを一緒にする。

 じゃあ、顔が似てたら誰でも犯罪者なわけ? ふざけんな。

 

 ぎり、と唇を噛み締める。そのくせあたしは何も言えない。インドがひとりでご飯食べてても、どんなに悪く言われてても、道に迷って困っていても、あたしはいつも見て見ぬ振りをする。どれだけ憤ってようが、行動が伴わなきゃ他のやつらとおんなじ。

 ……いや、きっとどこまでいってもあたしはみんなと同じなんだ。インドと話してるところを見られたくないと思ってる時点で、どこまでも。インドがいいやつだってのはわかってるのに、周りにどう思われるか不安で、怖がって近付こうとしない。あたしは、卑怯だ。

 おばちゃんは、まだ勝手な想像を語り続けている。

 聞いていられなくて、でも昨日持ってきてくれたカレーはおいしかったですよね、と無理矢理割り込んだら、おばちゃんがきょとんと目を丸くした。あのひとがカレーを持ってきたのは初日だけだわよ。なに言ってんのとでも言いたげに、そう返される。

 

 その時、あたしは理解した。

 インドは、カレー、作りすぎたんじゃないんだ。

 あたしがおいしいって言ったから、わざわざ作ってきてくれたんだ、って。

 

 

 

 次の日、また月曜日。

 

 インドはやっぱり食堂にいた。

 そして案の定今日もひとりで、あたしは数人の友達と一緒だった。

 あたしは、談笑している友達を置いて、トートバッグを抱えながら立ち上がる。

 どうしたの? という質問には、ちょっと用事、とだけ答えた。

 

 ずんずん歩いてインドのところまで行くと、インドの向かい側の席に勝手に座りこむ。

 え……あ、おトナリさんじゃナイですカ。インドがびっくりしたように言った。

 挨拶もそこそこに、どんっとトートバッグをテーブルの上にのせる。中からタッパーを取り出して、押しつけるようにして差し出した。

 なんですカ、これ。インドが呟く。

 あたしの作った肉じゃが、と答えると、ニクじゃが? と反芻された。

 あなたの作ったカレーにはかなわないかもしれないけど、一応、味には自信あるから。そう言ったら、インドは今更ながら、くれるんデスか、と訊いた。黙って頷く。そうしたら、見る見るうちに笑顔になるもんだから、なんだかこっちまでうれしくなった。つられて、あたしも笑う。

 

 そういえば、あの……名前、覚えられなくて、その、なんて言うの。

 事のついでに、名前も訊いてみた。確かにニホンのひとにしてみたら長いデスもんね、とインドが可笑しげに笑う。馬鹿正直に、うん、と肯定すると、インドはさらに目を細めた。

 アリ、でいいデス、長いですカラ。

 アリ。復唱すると、インド、じゃなくて、アリはうれしそうに頷いた。

 あ、そうだ、あたしの名前は……。言いかけて、止められた。覚えてマス、と得意げにアリが言う。

 

「つかさ、サン」

 

 ニクじゃが、ありがとうゴザイましタ。

 

 そう言って、あんまりうれしそうに笑うから、あたしはうれしくて、申し訳なくて、話かけてよかったと思って、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、泣いた。

 

 

 

 

20090514

20130905改訂(20200630再改訂)

 

 

 

inspired by『神様』川上弘美 著

どうか世界ようつくしくあれ