わたしの1日には、毎日必ず13分間の空白がある。

 

 普通に生活していたはずが、突然ぱたりと記憶が抜け落ちて、気付いたらもう13分後。

 その間、自分がなにをしているのか、わたしは知らない。

 

 

 

「笹岡あー」

「なんだいクリリン」

「教師に変なあだ名つけんじゃないよバカヤロー」

「変じゃないよー。鳥山先生に謝れクリリン! ばか!」

「ばかって言う方が馬鹿なんですうー。ていうか馬鹿をひらがなで発音するあたり馬鹿なんですうー」

「なにをー!」

 

 廊下にて出くわしたクリリンこと栗山弥太郎先生は、わたしのクラスの担任で、かつ古文を受け持つヒラ教師だ。

 クリリンの授業はものすごく眠いけど、ときどきちょっとやる気を出してちゃんと聞いみると、ものすごく分かりやすかったりする。でも、ものすごく眠い。ざんねん!

 

 そんでもって、クリリンは常時こんな感じだからよく生徒にいじられる。

 こないだは彼女と別れたらしいことをネタにされて、めずらしく本気でキレていた。べた惚れだったから、たぶん傷ついたんだろうなあ。4年も付き合ってたんだもんなあ。

 

「クリリンかわいそー。涙出てきた」

「お前、それ確実に先生がフラれたことを思い出しての発言だよね? フラれたの3ヶ月前だよいい加減忘れろコノヤロー」

「負けないでクリリン! 女は元カノさんだけじゃないよ! 吐いて捨てるほどいるよ!」

「え……ちょ、やめてやめて! 先生意外にガラスのハートなんだから! そんないきなり慰められたりしたら泣いちゃうから!」

「なんならわたしの知り合い紹介したげる! ミニブタのせーこちゃん、ぴっちぴちの0歳!」

「……よーし笹岡、歯ァ食いしばれー」

 

 晴れやかに拳を固めたクリリンから、きゃあー助けて悟空ー、とかてきとうなことを叫んで逃げ出す。あっ、こら笹岡! ってクリリンが言ったのが聞こえたけど、知らないふり。

 そういえば、なんでクリリンはわたしに声をかけたんだろう。なんか用でもあったのかな。パシリかな。つい一週間前には、近くのコンビニまでジャンプ買いに行かされたからなあ。

 結局あのジャンプ、うちのクラスで回し読みしました。もちろんクリリンの授業中にね!

 

 

 ―――ブツン、―――

 

 

「なに、やってるの、お前」

 

 クリリンが、わたしの腕を掴んでいる。うわあ、もう追いついてきた。クリリンってこんな足速かったっけ?

 ゼェゼェ言いながら、クリリンがじっとわたしを見つめる。その目がやけに真剣だったから、わたしは首を傾げた。

 

「笹岡、聞いてる? 何やってんのって、聞いてるんだけど」

「聞こえてるよー。何って、なにが?」

「……今の状況分かってないの?」

「状況?」

 

 足元を見る。

 びゅうびゅうと風が吹いていた。右足はぶらぶらと宙に投げだされて、よく見たら、靴が脱げている。クリリンのもう片方の腕がわたしのお腹あたりにまわされていることにも、ようやく気付いた。わたしを固定するみたいに、がっちりと。

 

「お前、今、飛び降りようとしてたんだよ」

 

 わたしが立っていたのは、屋上の錆びついたフェンスの、さらに向こう側だった。

 

 

 

 

 また、だなあ。

 クリリンと離れてから、屋上でホールドされるまでの記憶が、すっきりさっぱり存在しない。ほんとうに、これっぽっちも。

 確か昨日は、晩ご飯食べようとした瞬間から、最後の一口になったハンバーグに箸を伸ばしたあたりまでの記憶が消えていた。おかけで全然食べた感じがしなくて、危うく深夜に間食してしまいそうになったじゃないか。太ったらどうしてくれる! そしてわたしの右側の靴どこいった!

 

「笹岡、お前、なんか悩みでもあるの」

「ないよ。だから死のうとしてたわけじゃないってばー」

「じゃあなんで飛び降りようとしてたの」

「……ええーと、それがもっぱらの悩み?」

「はあー?」

 

 せっかく生徒が悩みを告白したっていうのに、まさかの「はあー?」。

 教師にあるまじき態度ではないのかねクリリンくん! PTAに言いつけるぞ。

 

「だってわたし、覚えてないんだもん」

「何を?」

「なんで自分があそこにいたのか」

「嘘つくんじゃありません」

「うそじゃないー! わたし、13分間だけ記憶なくなるビョウキなんだよ! ほんとうだよ!」

「時間が中途半端すぎる」

「そこツッコむなー!」

 

 わたしだって、15分とかもうちょっとキリのいい数字にしとけよって思ったけど! でも実際そうなんだもん。こないだたまたま時計見てたら、運良く時間が測れて、13分だったんだもん。文句はわたしの体に言え! ……あ、じゃなかった。文句言われても困る!

 

「ビョウキって、病院は?」

「行ってない。頭おかしいと思われちゃうから」

「……親御さんは?」

「知ってるよー。だけど、信じてない」

 

 わたしの記憶がすっぽ抜けるようになったのは、確か、小学2年生の冬がはじまり。

 さっきまで教室にいたはずが、突然雪の中で目が覚めた。雪に埋まって、体ががたがた震えていた。

 遠くからその当時の先生や友だちの声が聞こえて、じわりと涙がにじんで、その熱さだけが、唯一だった。

 

 それ以来、わたしの記憶は毎日13分間の空白を生みだしている。

 すっぽ抜けるのはいつだって唐突で、何時何分何秒にくるのか、自分でも予想がつかない。その空白の間、自分がなにをやっているのかも知らない。近くに人がいるときも、特に聞いたりしたことはなかった。

 だって、聞いたりなんかしたら、

 

「ねー、クリリン。わたし、13分の間、なにやってんのかな」

 

 こわいじゃないか。

 自分の知らないところで勝手に体が動いている。

 誰も不思議に思わないということは、きっとふつうに会話もしていて、それはいつものわたしと相違なくて、でも確実にわたしじゃない。

 こわいじゃないか。空白の間の自分を知るのも、知らないままでいることも。どっちも、こわいじゃないか。

 

「……笹岡あー」

「なんだいクリリン」

「明日、学校休みだよね」

「そうだよ、開校記念日です。間違って来たら恥ずかしいぞー」

「じゃあ、朝9時に笹岡ん家に迎えに行くから、明日は先生とデートしよう」

「ええーっやだ!」

「即答はやめて! ガラスのハートだって言ったじゃん!」

「なんでクリリンとデートしなきゃいけないのー!」

「だって、知りたいんでしょ。13分間、自分がどうなってるのか」

 

 ぱちり、とまばたきをして、クリリンを見つめた。クリリンはやっぱり真剣な目をしていて、なんだかすごく不思議な気持ちになる。

 信じて、くれるの。か細すぎて、きっと音にもならなかったわたしの言葉を、クリリンは丁寧に拾い上げて、信じるよ、と言った。さっき、「はあー?」って言ったくせに。なにを、今さら。

 

「……うそだ」

「うそじゃないよ」

「うそだよ。だってヘンだもん、こんな話。わたしだったら信じないもん」

「だけど、先生は信じるよ」

「うそ」

「うそじゃないって」

「……だってみんな、信じてくれなかったもん」

 

 雪の中でひとりぼっちだったあの日、本当に、死ぬって思った。死んでしまうって、ころされるって思った。

 こわくてこわくて仕方なくて、みんながわたしを呼ぶ声がだんだん近くなるのだけが希望だった。

 

 だけど、ようやくわたしを見つけてくれた先生が開口一番に言ったのは、心配の言葉じゃなかった。

 

 ──なに馬鹿なことしてるの! みんなに心配かけて……ちゃんとみんなに謝りなさい!!

 

 あの時の絶望感を、覚えてる。こわかったのに、抱きしめてさえくれなかったあの両腕を、わたしは覚えてる。

 与えられたのは毛布だけで、体温よりも涙の方が熱かった。

 

 

「すごく、すごくこわかった。なのに、みんな信じてくれないんだよ」

「うん」

「好きであんなことしてるわけじゃないのに、まるで、死にたがりを相手にするみたいに、迷惑そうに、するんだよ」

「うん」

「構ってほしいからこんなことするのねって、呆れたみたいに、わたしに、」

 

 少しだけ、わたしは諦めている。

 相互理解は不可能で、わたしは一生ひとりぼっち。

 今でもずっと、あの日の雪の中から逃げ出せないまま。

 

 

 笹岡、って、クリリンが呼んだ。

 なあに、って答えた。

 先生の目を見なさいって言うから、しぶしぶ顔をのぞく。クリリンの姿に、あの時の先生の姿が重なって見えた、ような気がした。

 

「それでも、先生は信じるよ、笹岡のこと」

「……さっきはまっ先に疑ったくせに」

「ごめんごめん」

「うそくさーい」

「だけど、やっぱりアレでしょ。生徒が苦しんでたら、味方になってあげるのが教師でしょ」

「……GTOみたいな?」

「そうそう、そんな感じ」

「……グレートティーチャークリリン?」

「そうそ……いや、なんかそれダサくない?」

「んーん。かっこいいよ、じゅうぶん」

 

 うつむいたわたしの頭に、ぽん、ってクリリンの手のひらが乗った。ぐしゃぐしゃーって髪の毛をかき混ぜられる。うぎゃあああ朝がんばってセットする女の子の努力を台無しにしやがってー!

 

「笹岡あー」

「なんだいクリリン!」

「あ、ちょっと怒ってる」

「うるさいやい」

「あのさ、明日は、笹岡の13分間、先生がちゃんと見てるからな」

「……うん」

「だから、もう怖くないよ」

 

 今度はゆっくり、慰めるようになでられる。

 

 孤独な戦いだった。

 わたし、VS、知らないわたし。

 ときどき、ふと気付くと車道にぼーっと立っていたり、遮断機の降りた線路に突っ込もうとしていたり、包丁を手に佇んでいたりする。いつもちょうどいいタイミングで意識が戻って、事なきを得るけれど、そのギリギリの時間が、きっと13分なんだ。

 わたしを殺そうとする“わたし”から、自分の命を守るためのギリギリのライン。

 

「先生が、笹岡のこと、ちゃんと守ってあげるから」

 

 ……あ、でもね、クリリン。本家のクリリンってよく死んじゃうキャラクターなんだよ。……ふ、不吉すぎる!

 

 思わずそれを口に出したら、せっかく感動的なムードだったのに、すぐさま張り手が飛んできた。ばちーん! 顔面にヒット。地味に痛い。

 だけどクリリンも相応の精神的ダメージを負ったみたいで、先生がかっこよく決めたんだから台無しにするなよー、とかなんとか、ぶつぶつ呟いている。

 うん、ごめんね、クリリン。あれ、照れ隠しだった。でも顔面がすごく痛いから、本人には言ってやらない。

 

 

 

 

 わたしね、ずっとひとりぼっちで戦ってきたの。

 

 だから、隣にだれかいるだけで、ほんとに、なんでも出来そうな気分になる。味方がいるって、すごく偉大。わたしをくるんでくれる両腕があることが、とてつもなく奇跡。

 明日こそ、絶対、ずっとわたしのまま、あの13分間が訪れずにいられるんじゃないかって。

 それで、やっぱりビョウキじゃないじゃん心配して損したー、とか、クリリンに言われるの。

 そんな明日が、来ればいいのに。

 そんな、夢みたいなことを、わたしは。

 

 

 

 

 ―――ブツン、―――

 

 

 

 

 

20090906

20130905改訂(20200621再改訂)

 

 

わたしを断絶していくチープラジオ

(話の終わりは誰も知りません)