私の友人はくまです。

 名前は何と言うの?と尋ねると、くまですと答えたのでそのままくまと呼んでいます。

 

 くまは体が大きいです。いつも背中をまるめているのですが、それでも私よりずっとずっと大きくて、おそらく2メートル以上、もしかしたら3メートル以上あるかもしれません。けれどくまはくまなので、私たちのように身長を測ったことがなく、本当のところはよく分かりません。

 

 くまはとても毛深いです。触るとちくちくしています。茶色い毛が体中にびっしりと生えていて、私はくまの肌が一体何色なのかを知りません。ぎゅっと抱きつくと、少し湿った生臭いにおいがします。よいにおいではありません。けれど、私はこのにおいを肺いっぱいに吸い込むのが好きです。

 

 くまは爪が鋭いです。いつもは意識して引っ込めているようですが、気を抜くとざくりとやられます。それはとてもとても痛いです。私が痛いと言って泣くと、くまは私以上に痛い顔をします。すみません、すみませんと謝ります。だから私は許してあげます。ちくちくした毛並みをなでて、だらだらと血を流しながら、へらへらと笑ってあげます。そうすると、くまはやっと痛い顔をやめます。そして、病院に行ってきてくださいと言います。くまは一緒には来ません。くまはくまなので、病院には入れないからです。

 

 くまは牙も鋭いです。だからキスが出来ません。そもそも口が大きすぎるのも理由のひとつです。私がついいつもの癖でお別れのキスをしようすると、くまは困った顔をします。困った顔のまま、駄目ですよ、間違って食べちゃいますと冗談を言います。食べちゃってもいいのに、と私は思います。けれど口にはしません。口にすると、くまがもっともっと困った顔をするからです。それに、私もやっぱり食べられるのは嫌だからです。

 

 くまは料理が上手です。たまにくまの部屋へ遊びにいくと、お得意のフレンチやイタリアンを振る舞ってくれます。この料理はなになにと言って、どこどこ産のなにを使っていてこういう味付けをして……うんぬんかんぬん、そういった講釈を垂れるのも好きです。とくにワインなんかを語らせると日がな1日話しているくらいです。そういう話をしているときのくまはまるで子ども、いや子ぐまのようでなんとも微笑ましいのですが、おいしいものは黙って食べたい私は少しだけげんなりします。私の様子に気付くとくまはいつも焦ったように、すみません、つい興奮してしまって、と言います。くまの濡れた鼻先からはふんふんと鼻息がもれているので、確かにそうなのでしょう。そういうとき、私は決まって気にしないでと言ってしまうので、どうせ次もまたこんな講釈を垂れられるのです。

 ただ、くまは食べることだけはあまり上手ではありません。私を招いて一緒に食卓を囲むのはよいのですが、料理を口に運ぶとき、くまはいつも後ろを向いて手で口元を隠します。以前その理由を尋ねると、食べ方が汚いもので、と恥じらったように答えたのを覚えています。スプーンやフォークも使うことが出来ません。箸なんて論外です。くまは料理を直に掴んで食べます。スープのときなどは、自分で作っておいてとても困った顔をします。今日も今日とて、自分が用意したペスカトーレを後ろを向きながら口元を隠してぱくり、ずるっずるっ、ばりばり、くっちゃくっちゃ、ごくん。そうしてこっちを向いてから、すみませんと恥じらうのです。

 

 くまは散歩が好きです。ときどき一人と一頭で連れだってとことこのしのし気ままに歩いて回ります。ふと手をつなぎたくなって、つないでいい?と私が訊きくと、くまは途端に困った顔をしてキョロキョロと周りを見渡します。近くには親子連れが一組、こちらを遠巻きから眺めていました。ひそひそ話が聞こえます。うわあ、くまだよ、お母さん。そうね、くまね。ぼく、あれにさわりたい! 駄目よ、ほら、もう帰りましょう。そんな会話です。父親は何も言いません。じろじろという視線だけを感じます。そっちを見ないようにしていると、次第に彼らはどこかへ行ったようでした。

 親子連れがいなくなると、くまは少し気落ちしたような様子でやっぱり手をつなぐのはやめましょうと言いました。手をつながなくても私はどこにも行きません、とも言いました。そうして、私を置いてさっさと歩いていってしまうのです。私は慌ててそのまるまった背中を追いかけました。くまは、くまなのに猫背です。

 

 

 

 

 ある日、くまはもうここにはいられませんと言いました。

 私は驚いて、どうして?なんて月並みなことを訊きます。くまは悲しそうな顔をして、やっぱりくまと人間は一緒には生きられないんですと言いました。

 そんなことはないと私は言いました。くまは力なく首を振ってそれを否定します。だから私はそれ以上何も言えませんでした。否定するための根拠がないのではありません。肯定する根拠がありすぎたのです。

 それでも一緒にいたいと私が言うと、くまは鋭い牙をがちがちと鳴らして、私は一緒にいたくありませんと言いました。私は、なぜ?と問います。くまは何も言いません。なぜなの?ともう一度言うと、くまは喉の奥でぐるぐるとなきました。低く、こもった、それは獣の声でした。たらりとその大きな口から涎が垂れていきます。私は、思わずゾッとしました。そして、それをくまに悟られました。

 

「ほら、一緒にはいられないでしょう」

 

 くまの声は、もうほとんど唸り声のように聞こえました。私は途端に動けなくなります。くまの毛深くて分厚い手のひらの先から、いつもは引っ込めているはずの鋭い爪が覗いていました。あれでざくりとやられたことを、不意に思い出してしまいました。怖くなんてないと言いたいのです。けれど、がたがたと震えだした私のこの体の反応を見れば、きっとくまは信じてくれないだろうと思いました。同時に、怖くないと言えばそれはくまに対して途方もない裏切りであるとも思いました。

 くまは、とてもとてもつらそうな顔で私にさよならを告げます。それが別れによるつらさなのか、本能に抗っていることから来るつらさなのかは私には判別がつきませんでした。ただ、ひとつだけ、人間に順応しようとした心優しい一頭のくまを、私の大切な友人を、私は何一つとして守ってやれなかったのだということだけは理解しました。

 そうして、くまはあの猫背をさらにまるめて、かろうじて二足歩行を保ったまま、足早に私の元から去っていきました。私には、それを追いかけることは出来ませんでした。

 

 

 

 

 しばらくして、私はくまが住んでいた部屋を訪ねました。中は、それはもうひどい有り様でした。

 壁や梁に、深いものから浅いものまで様々な爪跡が残っています。まるで獣がのたうち回った後のようでした。実際にのたうち回ったのかもしれません。けれど、糞尿の類いは見られませんでした。それがせめてものくまの矜持だったのでしょう。紳士的な彼らしい、と私は思いました。

 ふと見ると、無惨にも壊されたかつて座卓であっただろうものの近くに、一枚の紙が落ちていました。私はそれを何気なく拾い上げます。そこには幼い子どもが書きなぐったかのような拙い文字で、「親愛なる友人へ」という宛名と、たった一行の文章が綴られていました。それが誰に宛てたものかを、分からない私ではありませんでした。人間にまじって生きることに限界を感じたくまが、きっとどうしても伝えたくて、決死の思いで書いたのでしょう。紙はところどころが破けています。涎のあともあります。筆圧はやけに弱々しいところもあれば、力が入りすぎたのかやたらと濃いところもあります。

 

 ―――もしも、「この言葉」を、別れの瞬間に言ってさえくれていたなら。

 

 そうしたら、私は迷うことなくくまを呼び止めただろう、そう思うと喉が震えました。

 たとえ呼び止めたその瞬間にあの鋭い爪で八つ裂きにされようとも、あの鋭い牙で四肢を食い千切られようとも、私はくまを呼び止めただろう、と。

 そう思うのは私のエゴです。けれど、そう思わずにはいられませんでした。おそらく私を思って何も告げなかったのであろうくまが、気付かれるかも分からないこの紙にすべての思いを託したくまが、あまりにも哀れに思えました。

 

 私はその紙を手にしたままひっそりとしゃがみこむと、大きく息を吸いました。この部屋は少し湿った生臭いにおいで溢れています。私の大好きなにおいでした。いずれ消えてしまう、そしてもう二度と戻ってこない、あのくまのにおいでした。

 横隔膜が痙攣して、顔中がぐつぐつと煮たっていくのを感じながら、私はゆっくりと息を吐きます。ずっと言いたくて、ついに言えなかった「ことば」がありました。どうかそれがこの息にとけて、風となり、くまに届いてくれやしないかと、そんな夢のようなことを思いながら、ゆっくり、ゆっくりと、息を吐き出しました。

 

 

 ―――くまは、もしかしたら信じてくれないかもしれません。

 

 

 けれど、あなたにだったら私、本当は食べられても構わなかった。

 

 

 

 

20111206

20130905改訂(20200630再掲)

 

homage to『神様』川上弘美著

「月がきれいですね」