はじめてあの子と会ったとき、あの子は高い高い橋の上にいた。

 

「ね、なにしてんの?」

 

 話かけたらものすごく驚いたように肩を震わせて、同じくものすごく驚いたような目で振り返って、やがて、みるみる内に鬱陶しそうな顔に変わっていった。

 その表情の変化が可笑しくてけたけたと笑えば、お前誰だよ、なんか用?とつっけんどんな声で言われる。

 

「うちはねえ、悪魔!」

「……………はあ?」

「きみの命をもらいに来たんだよおう」

 

 そのときの、あの子の顔。うわ、変なやつに絡まれた、って語っていた。

 

 確か、そんな出会いだった。

 

 

 

 

「生きるのって、むつかしいねえ」

 

 ひとが死ぬときって、びっくりするくらい呆気ない。

 今の今まで酸素を吸って、二酸化炭素を吐き出して、そんな風に生きていた人間が急にひょっと全停止する。

 見ていて、いつも不思議だった。

 動かなくなった肉にひとがわらわらと集まってきて、わあわあと嘆き悲しんだりする。いかないで、しなないで、そういうのがお決まりのセリフ。同僚なんかはもっとドラマチックに、さつじん!とか、こうつうじこ!みたいな不慮の『死』にも立ち会うらしいけれど、生憎うちが担当する人間はいつも寿命いっぱいまで大往生したり若くてもビョーキになったりしてビョーインとやらで最期を迎えるので、うちにとってはもはやお決まりなのである。商売上がったりだぜバーロー!

 

 そんなこんなで、今回のターゲットも早くしね早くしねと囃し立てたにもかかわらず、95歳まで生きやがった。

 名を、遠峰洋二郎という。

 

「……ちゃんと生きてもいないくせに、人生語んなよ、死神」

「だあーからうちシニガミじゃないってえ、悪魔だってえ」

「どっちでも一緒だよ」

「一緒じゃないよおう」

「お前ほんっとしつこ……」

 

 い、を言う前に、げほごほと苦しそうに咳き込む。

 死ぬ前の人間たちは、毎回こんな感じだ。ビョーキになった人間たちにはそれぞれビョーメイというのがあるらしいが、いちいち覚えてもいられないので、うちには彼らがなぜ死ぬのかよくわからない。ビョーメイを知ったところでわかりそうもない。だから、目の前の老人がなぜ死ぬのかも、よくわからない。

 

 そんな感じで、みんないつも死んでいく。うちはそれを見届けて、上司に電報を打って、お給料をもらう。

 ちなみにうちのお給料は大好きなキョールアンビャークメーを好きなだけ、だ。それを老人に言ったら、なにそれ食い物?と聞かれた。地球上には存在しないものらしい。あれを食べたことがないなんて、にんげんってなんてカワイソウ!

 

「あっ、口から血が出たよおう」

「……うるせー」

「ね、ね、もうすぐ死ぬの?」

「死なねえよばーか」

「ええー! ちょうざんねーん」

「……死ぬかよ、絶対」

「ふうーん」

「あー、口ん中気持ちわりい……おい、ちょっとそこの水取って」

「なんかさあ、」

「シカトか」

「変わんないけど、変わったねえ。なんかねえ」

 

 うちが遠峰洋二郎を担当したこの数十年間、彼にはいろんなことがあった。

 

 一つめ、オクサンが出来た。

 ちょっと鼻は低いけど、目がぱっちりしていて口が小さくて、なかなかかわいいオクサンだ。プロポーズの言葉は「俺と同じ墓に入ってくれ」。うちと遠峰洋二郎の二人で必死に考えて、でもなぜかオクサンにはヒかれちゃった思い出深いフレーズだ。

 結局、ヒかれたショックで何も言えない遠峰洋二郎に、オクサンは「……あなたみたいなひと、私以外に付き合えそうもないね」と呆れたように言って、差し出された指輪を自ら左手の薬指に嵌めた。オトコマエなひとだった。

 

 二つめ、コドモが出来た。

 遠峰洋二郎似のオスが一匹と、オクサン似のメスとオスが二匹。小さい頃はみんなうちの姿が見えて、一緒に遊んでやったりもした。うちえらいでしょおう、えっへん! でも、そのうち段々と見えなくなって、みんなうちのことも忘れていった。

 ちょうどシシュンキとかいう時期に、三匹とも性格が変わったみたいに反抗し始めて、ボーソーゾクに入ってなかなか家に帰ってこなかったり、エンジョコ……エンコー?でオマワリのお世話になったり、ガッコーに行かず部屋からも出なくなったり、他にもいろいろ、いろいろやらかした。

 時には死にかけることも、昔の誰かさんよろしく高いところからダイブしようとすることもあったけど、うちは他の悪魔がコドモたちを迎えに来ようとするのを手当たり次第にボコって、遠峰洋二郎とオクサンはコドモに平手打ちをしたり怒鳴ったり抱きしめたりして、どんなになっても生きろって言った。

 生きるのってむつかしいねえ、とはじめて呟いたのも、この頃のことだった。

 

 三つめ、マゴが出来た。

 ハツマゴはチョウナンが連れてきて、チョウナンが生まれたときにそっくりの小さな生き物だった。ハツマゴは三匹生まれたうち、一匹はナントカっていうビョーキで、死にはしないけど生きるのが大変なマゴだった。でも、チョウナンも遠峰洋二郎もうれしそう。生きてるだけですごいんだ、って笑ってた。

 チョウジョは自分では生めない体だったらしくて、ダイリハハ?に生んでもらったらしい。いろいろごたごたも多くてしんどそうだったけど、生まれた双子を抱きしめるチョウジョの顔は、いつかのオクサンみたいにしあわせそうだった。遠峰洋二郎も、自分の腹から出さなくたって、間違いなくあいつがハハオヤだ、ってしあわせそうに言っていた。

 ジナンは、ヨウシをもらった。サトオヤというものになったらしい。遠峰洋二郎のとこに連れてきたマゴの顔は、ジナンと全然似ていなかった。ヨウシはジナンにも遠峰洋二郎にも懐くまで時間がかかったけど、ヨウシが来て5年くらいが経った頃、遠峰洋二郎がふと言った。あいつら、笑顔が似てきたな。全くその通りだった。

 

 何かがひとつ起こる度、遠峰洋二郎は少しずつ変わっていった。うちはそれを傍で見ていた。

 生きるのってしんどくてむつかしいけど、それでも遠峰洋二郎は生きていたし、オクサンも、コドモたちも、マゴたちも、生きていた。死んじゃえばいいのに、しつこく生きていた。人間って、意味わかんないけど、たまにすごい。

 

 すごいよね、ヨウちゃん。

 

「ね、ね、ヨウちゃん」

「あ?」

「これまでさあ、いろんなことあったね」

「……おう」

「んじゃあ、もうこの世に未練はないっすか」

「バーカ。未練タラタラだわ、このポンコツ」

「うちはポンコツじゃないよおおう」

 

 ヨウちゃんは、もうすぐ死ぬ。

 

 今ごろオクサンと一緒にイシャから話を聞いているだろうジナンや、そろそろ着くと連絡があったらしいチョウナンはまあ良いとして、カイガイに住んでいるチョウジョは果たして間に合うだろうか。いかないで、しなないで、の茶番劇はお決まりすぎて見飽きたけど、みんながそうするということは、そうすることにたぶん意味があるからだ。

 悪魔権限で、ヨウちゃんが死ぬの遅らせられないかな。そんなことしたらお給料引かれちゃうかな。はあああ、うちのキョールアンビャークメーが!

 

「……俺さあ、まだ、『したい』こと山程あんだよ」

「なんと! 95年も生きといて!」

「うっせ。……まず、玄孫たちが二十歳になるのを見届ける」

「ほほおおう」

「芸能人になるっつってたから、あいつがテレビ映ってるとこ見なきゃなんねえし」

「チョウナンのとこの?」

「そう。んで、ウェディングドレス着てるとこも見る」

「それはチョウジョんとこのだあ」

「ロボットのオモチャ買ってやるって約束したから、誕生日来月だろ、用意してやんないと」

「あー、ジナンのとこのねえ」

「つーか玄孫のガキだって見たいんだよ、ほんとは」

「えー、ヤシャゴの次ってなんて言うん?」

「知らん」

「がーん!」

「知らんけど、家族だろ」

 

 言ったあと、がはがは、とさっきよりも乾いた、喉が痛くなりそうな咳をする。

 とっさに口を押さえようとした手のひらはかすかに動いただけで、もう隠せもしなくなったヨウちゃんの顔が、情けなくくちゃりと歪んだ。

 

「……こんだけ、したいこと、残ってんのに。なんで死ぬんだよ」

 

 皺に埋もれた目から、ぺたりぺたりと雫が溢れていく。

 泣いてるとこなんてこれまで何十回と見てきたけど、こんなにもがらがらに嗄れた死にそうな声は、はじめて聞いた。あ、まあもうすぐ死ぬんだから、死にそうなのは当たり前か。

 

「ヨウちゃん」

「……あんだよ」

「むかし、自分が言ったこと覚えてる?」

「あ?」

「『したいことがある内は死にたくねーし、死ぬ間際まであれがしたいこれがしたいって思える人生が一番だよな』ってさあ」

「……」

 

「ね。あんとき死んどかなくて、よかったねえ、ヨウちゃん」

 

 大昔、高い高い橋の上から、一人の男の子が飛び降りようとしていた。

 

 うちはあの時、「きみの命をもらいにきたんだよ」って言ったけど、あれね、うそだよ。

 ほんとは別のひとの担当だったのに、なんか声かけちゃって、そのまんま押し掛けみたいに担当になったの。上司にはめっちゃ怒られるし、本来ヨウちゃんの担当だった奴には殴られるし、うちの担当だった人間を押しつけられた同僚にはねちねち嫌み言われるしでさんざんだったけど、……たった数十年間だったけど、たぶん、今まででいちばん楽しかったよ。

 

 

「ね、ヨウちゃん。いーい人生だったねえ!」

 

 

 ヨウちゃんはしおしおの顔でうちを見て、もうすぐ死にそうなくせに、ほとんど歯もなくてみっともない口元を無理やり吊り上げて、にまあっとわらった。

 

「……当たり前だ。感謝しろよ、悪魔」

 

 こつ、と少しだけうちの手のひらを叩いたよぼよぼの拳。つられて、うちもにまあっと笑ってあげた。

 

 カンシャ、してるよ。

 だってヨウちゃんは、うちの『したい』が詰まってたひとだもん。

 

 

 

 

 

 

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【ほおこくしょ】

 

回収対象:遠峰洋二郎

死因:肺炎

 

予定死亡年齢:17歳

実際死亡年齢:95歳

誤差:プラス78歳

 

回収後の措置:

 死因が『自殺』の予定だったため地獄送りが相当と考えられたが、死因の変更に伴い措置も変更。

 最終的に、担当アクマは回収対象・遠峰洋二郎を天国行きとする事を独断で決定した。

 まあそんなわけで、キョールアンビャークメーは我慢するから、上司よゆるしてちょんまげ!

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20121130

(20200630再掲)

 

 

長いようで短いすべての旅路に祝福を!